打つ、打たないで、白黒なんて、つけなくてもいいんだよ〜グラデーションの世界を生きよう〜
この世界は無数の「陰」と「陽」でできている。
「男」と「女」
「太陽」と「月」
「昼」と「夜」
「表」と「裏」
そんな考え方が「陰陽思想」であり、「木火土金水」で捉える「五行思想」と合わさり、「陰陽五行思想」と呼ばれ、東洋哲学のベースになっている。
で、果たしてそれは本当なのか、ってことを論じたい。
いや、論じるってほどの話でもないんだけどね。
今、この社会は分断されている。
何によって分断されているか。
「情報」である。
僕らは今、どこから情報を得るかで分断されている。
その一例が、新型コロナウイルスのワクチン接種だ。
いろんなところで、「打つ」「打たない」とか、打つ予定が「ある」「ない」みたいな話を耳にする。
(へぇーっ…)と思って眺めてるんだけど、「間違ってる」「間違ってない」みたいな議論をそこかしこで見かけて、(オモロイ世界だね)とも思う。
これなんて、まさに「陰」と「陽」という感じである。
それを分けているのは「情報」なのだ。
「ワクチン肯定派」がその考えのもとになっている「情報」と、「ワクチン否定派」がその考えのもとにしている「情報」は異なる。
で、この手の話題になると「テレビや新聞など主要メディアは、正しい情報を流していない」的な意見を目にするわけだけど、その人たちが参考にするのが「SNSの情報」だったりして、その信憑性に大差あるようにも思えない。
所詮、「情報」は「情報」であって、「玉石混交」の中で、僕らはその目で、その感性で、その知性でもって取捨選択を繰り返す必要があるのだと思う。
「どちらが正しい情報か」なんてことよりも、「その情報からどの部分を受け取るか」の方が重要だと僕は思う。
異なる媒体から「情報」を得て、ある意味では「参考」にし、ある意味では「鵜呑み」して、「自分の考え」を決定しているとしたら、これは少々危険なことだ思うんだよね。
情報源が異なる議論って、本当に噛み合わない。
「どっちの神様が正しいの?」ってことを争っている宗教戦争と構図は似ている。
否定のし合いは議論とは呼ばないのよね。
一生懸命自分の主義主張をSNSで発信している人は、むしろ「情報」をそっくりそのまま「自分の考え」だと錯覚しているところがある。
一方の「情報」のみを採用したからこそ起こる。
本来は「肯定的な情報」も「否定的な情報」、両方の「情報」を得たうえで、「さあ、自分はどうしようか」とフラットに考えるべきだ。
どちらかを「是」と捉え、どちらかを「非」と捉えるのではなく、両方をフラットに並べることが先なのだと思う。
まな板の上にちゃんと並べたい。
んで、両方の情報を並べると「打つ」「打たない」は迷って当たり前なのだ。
迷っている人はいっぱいいて、そのことは本当に素晴らしいことなんだ。
「打つ」「打たない」を「白」と「黒」に置き換えて、白黒はっきりつけさせようとする姿勢が、世の中の分断を招いているように思えて仕方がない。
「白と黒の間に 無限の色が広がっている♪」と歌ったのはMr.Childrenの桜井和寿さんだけど。
まさに、「白」と「黒」の間には無限の色が、グラデーションで並んでいる。
白と黒で答えろという
難題を突きつけられ
ぶち当たった壁の前で
僕らはまた迷っている
(Mr.Children『GIFT』)
そう、僕らは今、「白」と「黒」の間で迷っている。
だから、「白だ」「黒だ」と論じることは対立を生むだけである。
本当はそこに無限に広がるグラデーションを認めることからスタートしたい。
「打ちたいけど怖いな」とか。
「打ちたくないけど打たなきゃ」とか。
「夫は打つけど、私は打たない」とか。
全部、オッケーなのだよ。
いろんな考えがあって、そのどれもが素晴らしくて、そのどれもを僕らは尊重しあえばいい。
何が正しくて、何が間違っているかなんて、どうでもいいのだ。
「あなたは打ちたんだね、私は打たないけど」もいいし、
「私は打つんだ、あなたは打たないけど」もいい。
いろんな考え方があって、この社会はグルグル回っている。
陰陽の「白」と「黒」は決して分断されていない。
「陽」の中に「陰」があり、「陰」の中に「陽」があって、グルグルグルグル巡っている。
異なる意見を否定することはない。
異なる存在を否定することはない。
私とあなたは「違う」のだけど、それは「間違い」ではない。
この世界は「陰陽」でできているけれど、その「白」と「黒」の間には、無限の色彩が広がっていることを心に留めておきたい。
早い話、白黒つけなくてもいいんだよねって話なのだ。