先生にカリスマ性などいらない
教員は多忙ですね。私は担任ではないこともあり、自分の子どもと一緒にいたいのもあり、 早く帰るようにしています。 でも早く帰ることをよしとしない同僚もいますし、「担任じゃないからラク」という人もいます(たしかに出席簿、 採点、成績付けには追われない) 自走する組織作り、すごく大切だと思います。ただ、いまの私は「先生でもなんでも、カリスマ性があるかないかじゃないか」 って諦めの気持ちもあります。 自分の子どもと過ごす時間を大切にするために早く帰ることは自分で決めていますが、 教材準備に時間かけてる高学年の子持ち先生見てると自分は間違っ てるのだろうかと悩むこともあります。 先生って、くればやし先生みたいな特別な人がなるべき仕事なのかもしれない ですね。 自分で明快な解が出せずにいます。
学校の先生として、僕がモットーにしていたことは、「脇役」に徹するということでした。先日、講演会で珍しくみんなの真ん中で集合写真に写りました。
たまたまそこしか空いていなかったので、真ん中にいました。
それを見て、ある人が「珍しいね」と言いました。
「自分の口座でも集合写真のフチの方に写るところが、くれちゃんらしいと思うから」とのことでした。
僕は真ん中に写るのが嫌いです。
学級担任のときも、集合写真のとき、写るとしたらフチの方。
むしろ、写っていないこともよくありました。
その代わり、副担任の先生に入ってもらったりしました。
だって、僕は「主役」ではないから。
時折、ど真ん中に写って「王様気取り」の先生を見ると、「何を勘違いしとんねん!」と思っておりました。
「俺がいないとダメなんだよね」とか言った日には、「教育者として3流ですね」とお伝えしていました。
僕は「必要とされないこと」が大事だと思っています。
「先生は座っていてください。自分たちで何とかしますから」と子どもたちが言えたら、満点の学級経営だと思っています。
だから、僕は脇役に徹しました。
その代わり、遠巻きに眺めていて、子どもたちの心が届ききらない部分でフォローをしました。
陰日向で暗躍したんですね。
誰も気づかなくていいんです。
誰にも感謝されなくていいんです。
3月、最後に学級を閉じるとき、「良いクラスだったな」と思ってもらえたらそれで良いんです。
あとで振り返ったとき、「あのときの担任って誰だったっけ?」と言ってくれたら最高で、「くればやし先生のおかげで」とか言い出したら、「気持ち悪いからやめてくれよ」と思うわけです。
子どもたちに比べたら、そりゃ大人なんだからすべてにおいて長けていて当たり前です。
そんなところで、カリスマ性なんて発揮してたらウンコです。
僕は先生にカリスマ性などいらないと思っています。
そんな人しか先生ができないなら、教育現場は崩壊します。
むしろ、脇役に徹するべきです。
いてもいなくても良い存在になるべきです。
そういうところから、子どもたちを陰日向で支え、さも「自分たちだけでやりました」という空気にしてあげることが大切です。
学級でレクをする。
子どもたちが運動場で元気に遊んでいる。
僕は日陰でその様子を眺めている。
遠巻きに眺めているからこそ、ひとり、ポツンとしている子を見つけることができる。
別のところでつまらなそうにしている子がいる。
その子のところに行って、「あいつに声をかけてやってくれよ」と言う。
先生が言うなら仕方ないな、という顔をして、そいつはその子のところに行って声をかける。
ふたりでブランコに揺れる。
その様子を見て、僕はまた安心して日陰に腰をかける。
すると、そこに「先生もやろうよ」と女の子たちが誘いにくる。
僕は一言、「先生はいいよ」と言って追い返す。
「つまんないの」と言って、彼女たちは踵を返す。
それでいい。
それがいい。
僕はそう思って、先生をしてきました。
先生にカリスマ性なんて必要ありません。
むしろ、自分にカリスマ性があると思っている教師などウンコです。
先生は脇役でいい。
子どもたちが成長してくれて、僕のことなどさっさと忘れて羽ばたいてくれたら最高じゃないですか?
僕はそんなことを考えています。