人間は失敗する生き物だからこそ、失敗した後の姿に真価が問われるのです。
「なんて愚かなことをするのだろうか?」と思うことがある。
人を傷つけたり、人に後ろ指を刺されたりすることを平気でやる。
人間は「良かれ」と思って自分の行動を選択する生き物だから、そのような一般的に見て周囲の人が「愚かだな」と思うことを「良かれ」と思ってやってしまう人はやはり愚者である。
グシャ!
愚かな人だ。
そういう人を見ると、心ある人は注意したりする。
それはよくないことだよ、と嗜める。
心ある人は愛のある人だ。
普通は関わり合っては大変だと避けて通る。
やはり愛を持って進言してくれる存在は貴重である。
だが、愚者は、その進言に対して素直に耳を傾けることができない。
なにせ「良かれ」と思ってやっているので、自分の行為は正しいわけで、進言する者は「自分を否定してきた」と捉えてしまうわけだ。
映画やドラマで愚かな上司が部下に見限られるなんてシーンを描くのは簡単で、上司の行動を部下が嗜め、それを逆ギレして部下を責めれば完成する。
愚かな人を描くのは容易いのである。
一方で、賢い人は他者を進言に対して素直に耳を傾け、我が身を省みることができる。
どれだけ賢い人でも、人間は間違える生き物だから、時として失敗を犯す。
そんなとき、周囲の人が「それは間違っているよ」と進言してくれる。
賢者の真骨頂は、そんなとき素直にその言葉を受け止め、過ちを修正しようと試みる。
年長者に声であろうと、年若き者の声であろうと構わない。
他者の助言を素直に受け止める「聞く耳」を持っているのである。
孔子の『論語』の一節にこのような有名な言葉がある。
過(あやま)ちて改(あらた)めざる、是(これ)を過(あやま)ちという
(過ちはだれでも犯すが、本当の過ちは、過ちと知っていながら悔い改めないことである)
本当の愚かさは、自分が間違えたとき、他者から進言されたとき、それを素直に受け止めることができないことだ。
昔、ある人がネットリテラシーに反することをした。
それは小中学生でも知っている、SNSでは絶対にやってはならないことだった。
それで心ある人が、それは社会人としてよくないことではないかと嗜めた。
僕などは人間的にできていない人間なので、関わり合っては大変だと、静観を決め込むことにしたのだが、愛ある人は勇気を出して進言した。
これも孔子が「忠言耳に逆らう」と言葉を残していて、諌める言葉は自分が非難されているように聞こえるもので素直に受け止めることは難しいことを示している。
まさにその言葉通り、その人は進言を受け入れることができなかった。
人間は失敗する生き物だ。
そのたびに、修正すればいい。
失敗は他者から愛される要素でもある。
失敗しない完璧な人などいないし、完璧な人を愛することは難しい。
多少のポンコツさは人間的魅力なのだ。
そして、そのポンコツさを輝かせるのは、過ちを過ちと認められる素直さである。
こういう人は賢者である。
「あの人、反省してばかりですね」
という人は愚かな人ではない。
反省できることは素晴らしいことなのだ。
賢者になることは誰にでもできる。
だが、誰にでもできることだけど、簡単にはできない。
人間は、だからこそ面白い。
何も頭が良いとか、能力が高いとか、賢者に必要なのはそういう類いのものではない。
素直さや謙虚さなのである。
愚者はこういう謙虚さや素直さを持ち合わせていない。
だから、他者の進言に素直に耳を傾けることができない。
何度も言うが、人間は失敗する生き物である。
大切なことは、むしろ失敗した後の姿にある。
その後の行動にこそ、その人の本当の姿が現れるのである。