どんな人生を生きたら、僕は満足して死ねるだろう?


若い頃、校長先生にボーナスの明細を見せてもらったことがある。

 

「先生、校長になると、どのくらいもらえるんすか?」

 

軽いノリで尋ねる新卒の僕ww

校長先生は「そういうものは人に見せるものじゃない」と嗜めたけど。

「いいじゃなっすか?見せてくださいよ」と言ったら渋々見せてくれた。

 

 

「俺は校長だからな」と少し自慢げにボーナスの明細を見せてくれたのだけど、僕は心の中で

 

(あぁ、こんなものなのか…)

 と思った。

 

もちろん、少なくはない。

公務員を長く勤め、学校のトップなのである。

それなりにもらっているのは間違いない。

 

 

間違いないんだけど、新卒の僕はそのとき、僕の人生のマックスを知った気がした。

僕の人生は、このレールの上を走っている以上、この上限を超えられない。

そう思うと、何だか夢がない気がしたのだ。

 

 

もちろん、人生はお金じゃない。

そんなことはわかっている。

 

 

でもさ、人生はアンコールもリセットボタンもないわけじゃない?

一生ってのは1回しかなくて、今世はこれ1回こっきりで。

そのたった1回の人生の上限はこんな感じなんだな、が見えたとき、僕は生き方に迷いを感じたのも事実だ。

 

 

それでも最初は出世をすることに魅力を感じていた。

「校長先生になってみたい」と思っていた。

校長になったら自由に学校運営ができると思っていた。

 

 

でも、現実は全然違っていて。

なんか、保護者の苦情とかいっぱい来て。

もちろんそれが「僕の失敗」で苦情が来るなら、全然OKなんだけど。

 

 

自分の学年の先生のわけのわからんやらかしの苦情で、保護者に謝り、子どもに謝り、当の本人に「こんなことで保護者は怒ってるんだよ」と話しても、なんかあっけらかんとしていて、こちらが強く言えば「パワハラ」で訴えそうな空気で。

 

 

マネジメントする立場になって、「あー、これ、ちょっとシンドイな」って思い始めていた。

そんな矢先、僕の職場は30代半ばの僕の同期が全員学年主任で、残りの教員はみんなこの学校がはじめてです、みたいな状況になった。

 

 

人を育てる余裕すらない。

全部、学年主任が引き受けるから、学年会計も総合学習も全部やらなきゃいけなかった。

せめて2校目、3校目、そういう人がもう少し欲しい。

 

 

そんな話を校長にしたら、「だって誰も来ないんだもん」と言った。

そのうえ、「この忙しさじゃ先に主任が倒れます」と言ったら「他に頼める人がいないんだもん」と言った。

 

 

その瞬間、「あ、コイツ、ダメだな」とマジで思った。

「ただの店長じゃん」と思ったのだ。

校長になったら自由に学校運営ができると思っていたけれど、どこまで行っても中間管理職なんじゃないの?と思えたんだ。

 

 

何の権限もなくて、マネジメント能力もなくて、職員が疲弊していくのを指を咥えているだけの人。

それでも、わりとその界隈では有名な先生だった。

 

 

なんかね、虚しくなったの。

ここで身体を張ってがんばる意味って何だい?と。

その瞬間、僕はこの仕事を辞めようと腹に決めた。

 

 

僕の人生のマックスが、こういう人でもできる仕事なのだとしたら悲しい。

たった一度の人生だから、やりたいことをやりたいようにやりたい。

それでダメなら仕方がないじゃないか。

 

 

でも、後悔だけはしたくない。

そう思ったんだ。

 

 

理想と現実には必ずギャップがある。

理想の自分に蓋をして生きるのも人生。

理想の自分を目指してがんばり散っていくのも人生。

 

 

僕はそのギャップを埋めるために必死に生きてみたい。

必死とは「必ず死ぬ」と書く。

必ず死ぬように生きるって変な言葉だな。

 

 

でも、これこそが「今ここ」を生きるってことだと思う。

未来はどうなるかわからない。

 

 

マックスだと思っていた頂きに届かないかもしれないし、それを突き抜けてどこまでも伸びていくかもしれない。

そんなのわからないよな。

 

 

人生はだから面白い。

どうせいつか死ぬんだし、きっといつだって道半ばだし、死後に持っていけるものなんて何もないんだし。

 

 

やりたいことやればいいじゃん。

失敗したらやり直せばいいんだもん。

くればやし ひろあき

・株式会社ミナクル組織研究所 代表取締役

・フォロワー10万人の教育系TikTokクリエイター「くれちゃん先生」としても活躍中。人間関係や教育についての動画を配信

・1978年、愛知県生まれ。16年間公立中学校の教員として3,000人以上の子どもたちを指導。名古屋市内で最も荒れた中学校で生徒指導の責任者を務め、その後、文部科学省から上海に派遣され、当時世界最大の日本人学校であった上海日本人学校の生徒指導部長を務める。

・互いの「ものの見方や感じ方の違い」を理解し合うことで、他者に寛容な社会を実現したいと願うようになり、2017年独立。

・独立後は、教員時代の経験を活かし、全国の幼稚園や保育園、学校などで保護者向け講演や教職員研修を行う。2018年・2019年には、100人のボランティアスタッフを束ね『子育て万博』を主催。今年10月にパリコレクションのキッズ部門を日本に誘致して開催された『Japan Kids Fashion Week2021』において、全体計画及びキッズモデル・ボランティアスタッフ総勢150名のマネジメントを担当。

・2020年11月、「スタッフみんなが、明日も生き生きと来る!」を理念に、株式会社ミナクル組織研究所を設立。経営者、教職員、スポーツ指導者など、組織のトップや人を指導する立場の人たちから依頼を受け、人間関係づくりやチームづくりに関する講演や企業研修、教職員研修を行っている。経済産業省の事業再構築事業として人材分析システムを開発中。