僕らは何を求められているのだろう?
国道を飲み込むように押し寄せる波の上に浮かぶワゴン車。
大きな船が堤防を越え、街は沈んでいく。
あの日、僕はどこか遠くの世界でも眺めるように、テレビ画面を見つめていた。
あの未曾有の津波を「予見」できた人間がいたのだろうか。
あの震災まで、津波を「恐ろしいもの」と捉えていた人がどれほどいただろうか。
テレビの速報に流れる津波の注意情報。
50㎝の津波が海岸に押し寄せる。
それで港に係留してあった船が横転する。
そんなものだと思っていた。
あの日が来るまでは。
そうそう。
原発だってそうだ。
あんな風に人間には制御できない代物だとは思っていなかった。
海岸から4㎞。
この場所に津波?
きっと僕だって考える。
裏山に逃げる?
その選択、できただろうか。
僕らが想像できるのは、イメージできる世界だけだ。
僕らのイメージに「津波」が存在しない時代である。
災害と聞いて、最初にイメージするのは地割れや土砂災害。
山へ逃げる。
その選択で土砂災害に巻き込まれることだってあるだろう。
僕らがイメージできるのは経験したこと、見たことのあることだけだ。
震災の日はちょうど職場で旅行に行く日だった。
駅に向かうと、すべての新幹線が運休だった。
忘れもしない。
その日、みんなで居酒屋の小さなテレビを見ながら、言葉を失った。
「映画みたいだな…」
正直な感想だった。
僕らはあの日まで、津波がこんなにも恐ろしいものだとは知らなかったのだ。
だから、「予見できた」という言葉が重くのしかかる。
あの日、津波で亡くなった多くの人もまた、予見できた、ということなのだろうか。
緊急放送を聞いてもすぐに行動を起こさなかった人だって、きっといただろう?
「まさか、津波が?」と思った人だって、きっといるはずだ。
そんなたくさんの尊い命にも「予見できた」と言えるのだろうか。
関東から四国にかけて、今後さらに大きな地震が起こる可能性があると指摘されて久しい。
どこの学校でも避難訓練をしている。
子どもたちの安全を第一に考え、準備を進めている。
けれど…。
それだって、想定される範囲内での出来事をシミュレーションしているに過ぎない。
子どもは一人も怪我をしていない想定だし。
先生は全員出勤しているし。
放送機器は壊れていないし。
避難経路はすべて安全な状態だし。
天候は100%晴れだし。
気候は寒過ぎず暑すぎずだし。
すべてこちらに都合のいい想定で、避難訓練をしている。
想像を超えた世界を予見することを求められているのだとしたら、学校の先生はスーパーマンでなければならない。
僕の嫌いな映画がある。
『タイタニック』
あの映画のラストシーンだけが気に入らない。
沈みゆくタイタニック号は、最後に直立に立ち上がる。
次々と人が降ってくる。
そんな状況で主人公が叫ぶ。
「上だ!」
彼女の手を引く主人公。
あのシーンだけが、僕の中で残念なのだ。
「かっこよすぎる」
極限状態で、そんなセリフを吐けるだろうか。
最後の最後で、急に萎えてしまうのだ。
あの日、あのとき、あの場所に、僕もいたとして。
果たして、そんなかっこういいセリフが言えるだろうか。
「上だ!」
僕には言えない。
亡くなった先生方と、きっと同じ判断をしたはずなのだ。
子どもたちと一緒に命を失っていたのは、僕だったのかもしれない。
だからこそ、胸が痛い。
「自分なら…」
そんなことを言える教員がいるだろうか。
それを思うと、「予見できた」という言葉は重い。
命を落としたすべての方々のご冥福を、改めてお祈りいたします。
ハッピーな先生になるためのしつもん
目の前の子どもを守るために、僕らにできることは何だろう?