能動的な学びでしか学力は伸びない
学習とは自己完結するもの。
だれかに評価されるようなものじゃない。
だれかに評価されるためにやるものじゃない。
世界は「知らないこと」にあふれている。
だから、学ぶ。
知りたいことがあるから学ぶ。
何かを知ると、またその先に未知の世界が広がっていることを知る。
だから、また学ぶ。
学びとは、自己完結するものである。
結果を評価されたくて学ぶものではない。
知識を比べ合うために学ぶのではない。
本来はね。
「なんで先生は勉強が好きなんですか?」
「えっ?学生時代は全然勉強しなかったけどね」
「でも、今は難しい本読んだり人に会ったり、いっぱい勉強してるじゃないですか?」
「うーん、そうねぇ。◯◯さんは勉強嫌い?」
「勉強好きなんて子、いるんですか?」
学ぶことそのものの面白さに気づいていない子が多くいる。
そのことを伝えてこなかったのは、学校の先生の責任かもしれない。
評価のために勉強させてこなかったか。
自らの仕事を省みる必要がある。
勉強って好きだからわかるし、わかるから好きになる。
そういう好循環が起こると成績が伸びる。
そう信じられきたけれど。
本当にそうだろうか。
違うのかもしれない。
成績が良くたって、勉強は嫌い!って子はいっぱいいる。
「できればやりたくない」
そんな子供たちにたくさん出会ってきた。
そうそう。
大人にも学ばない人は多くいる。
なぜ学ばないのだろう?
子どもたちの学びは、評価される学びである。
大人になってからの学びはどうか。
学ばなくても叱られない。
学ばなくても評価されない。
「叱られるから」「評価されるから」、という理由で受動的な姿勢で学ぶことはできない。
点数を取る方法は身につけられても、人生を豊かにするという視点が生まれない。
僕らは「学ぶことの楽しさ」そのものを学んでこなかったのかもしれない。
そうであるならば、学校制度の問題や進路指導との関わり、学習塾の存在を見つめ直す必要があるのかもしれない。
じゃあ、僕はなぜ学ぶのだろう。
生徒たちから「勉強が好きな先生」と思われるのだろう。
たぶん学びの価値を知っている大人に見えるからだと思う。
学んだら人生がおもしろくなることを体験を通して知っている。
だから、学べるのだと思う。
他人の評価なんてことはどうでもいいことなのだ。
たとえば、一冊の本を読む。
一冊の本を読めば、そこには人生を好転させるエッセンスが詰め込まれている。
だから、ビジネス書を読む。
教育者を名乗りながら、門外漢のビジネス書を読み、そこから人生に生かすことができるエッセンスを探す。
わからない言葉だらけだ。
だから、読むのはすこぶる遅い。
眠くなる。
読んで楽しいなら、エンタメ小説がいい。
耳障りのいい言葉が並んでいる本は心地いい。
でも、そこから学べることは多くない。
知らないことに出会う。
無知を知る。
それが次の学びにつながる。
「ネットで勉強している」なんて言う人がいる。
ネットは素晴らしいメディアだ。
だれもが発信者になれる時代である。
だが、その情報は玉石混交である。
だか、書籍は違う。
たった1500円程度の投資である。
だが、第一線で成功を収めた著者が編集者とともに長い年月をかけて執筆したものである。
そのうえ、出版社が数百万円を投資して、書店に並んでいる。
その価値は1500円どころではない。
だから僕は本を読む。
読書は「投資」である。
わずか1500円。
とはいえ、時間も投資しなければならない。
情報を取りに行くような読書をすると、そのリターンは計り知れない。
費用対効果を上げるのは、ひとえに読み手の意識である。
だから、僕は暇を見つけては勉強をしている。
子どもたちはなぜ勉強が嫌いになってしまったのだろう。
評価されない学び。
能動的な学び。
自ら課題を見つけ、自ら解決する。
そんな自己完結する学びを子供たちに経験させられるか。
いや、そういう学びを大人が受容していけるか。
やはり問われているのは大人の在り方だと思う。
ハッピーな先生になるためのしつもん
子供がフローになる学びを創造できていますか?