問いかけて、引き出す。それが教育。
「理想の生徒像」って何だ?
「理想の生徒像」を考える。
これからの時代の必要な力を考える。
そうやって目指す生徒像を明確にする。
まあ、多くの学校で、そんなことが行われている。
教育研究なんてのもスタートラインも、だいたいそんな感じ。
まず、ゴールを設定する。
そして、実践していく。
僕はそんな在り方に疑問を感じていた。
いつからだろう?
大人が考えた「子ども像」に当てはめ、そういう子どもを育てるために教育を行うようになったのは。
「教育とは、望ましい姿に子どもを育てること」
そう話す人がいる。
その「望ましい」は、だれにとって「望ましい」なのだろうか。
理想の妻を育てる。
たとえば、もし。
僕に「理想の奥さん像」があったとする。
僕は、その理想像に従って妻を英才教育していく。
ほめて伸ばそうが、叱って伸ばそうが、どちらだっていいんだけど。
「もっとこうしなさい」
「もっとああしなさい」
そうやって、理想の妻を育てようとする。
どうだろう?
たぶん、あなたは違和感を覚えるだろう。
心地悪さを感じるだろう。
他者がある意図をもって自分を変えようとしてくる。
この発想は、人に居心地の悪さを感じさせるのだ。
「与える教育」の限界
education(教育)の語源は、educare(エデュカーレ)というラテン語。
その語源は「引き出す」。
つまり、子どもたちの力を引き出すのが教育である。
いつからだろう?
何かを身につけさせるのが、教育になってしまったのは。
もちろん「右肩上がりの時代」には、それでもよかった。
平均値を上げることが大事だった。
組織の「コマ」となる人材が重宝される時代だった。
欠点にフォーカスし、それを補う力を身につけさせる。
そうやって平均的な人間を育てる。
その「やり方」は、決して間違ってなどいない。
「これまでの教育」は、「これまでの時代」には、ちょうどよかったのだ。
だけど。
すでに、時代は次のターンに移っている。
「成熟社会」では、平均的であればあるほど、人工知能や機械に仕事を奪われていくのだ。
子どもそれぞれに能力差がある。
習熟度も違う。
そういう中で、画一的な教育を行っていくことは、すでに無理ゲーなのだ。
「しつもん」で引き出す
子どもたちの力を引き出していく。
教育において「しつもん」は、とても有効なツールなのだ。
16年間、国語の先生として発問を作り続けてきた。
いい発問ができれば、授業なんて、始まる前から終わっている。
良い発問ならば、教室に先生はいらなくなる。
そのことに気づいたとき、僕は愕然とした。
答えはすべて内側にある。
心の導火線も内側にある。
そう!
子どもたちの内側には、可能性が詰まっているのだ。
教育とは、それを引き出すことである。
問いかける。
これほど有効な方法はない。
それで僕は、「魔法の質問」でさらに「しつもん」を極めることにした。
答えはすべて内側にある。
それを引き出す。
教育とは、引き出すものなのである。
ハッピーな先生になるためのステップ
子どもの内側に答えがあることを信じられるのが教育者。