時間を忘れて没頭したことは何ですか?
戦争によって、3つに分断されたポーランド。
彼女の住んでいた地域はロシアの支配下にありました。
驚くほど頭の良い女の子だったマリー。
でも、ポーランドでは女の子は大学に進学することが許されていませんでした。
彼女は海外へ羽ばたくことを夢見ます。
パリへ行くことを決心した彼女は、勉強する傍ら2件の家庭教師を住み込みで始めます。
それと同時に、学校に行けない子どもたちに勉強を教えるようになります。
それは、当時のポーランドの法を犯す行為でした。
化学の勉強に夢中になったマリーでしたが、実験ができないことが不満でした。
たまたま従兄弟の1人に「工業・農業博物館」の館長がいました。
そこには小さな化学研究室があって、いつも彼女はここにきては実験の勉強を始めます。
やがて、憧れの地・パリへ。
そこで待っていたのは貧しい暮らしでした。
部屋代を払うと食べ物と寒さをしのぐ燃料代しかありません。
けれど、彼女は幸せでした。
明かりと暖房のある図書館で彼女は勉強をします。
部屋に戻ると油ランプの明かりで本を読み、疲れて読めなくなると倒れるように眠る生活でした。
彼女は、何もかも吸い取るように、どんどん学びを深めていったのです。
頭角を現し始めたマリーは、同じ大学の研究室長だったピエール・キュリーに出会います。
2人は一緒に科学の研究を始め、やがて結婚します。
キュリー夫人の誕生です。
当時、日本では学問研究の道を志す女性は少なく、またそのほとんどは独身でした。
結婚して子供のある女性が研究者として仕事をするということは、考えも及ばぬことだったのです。
その畏敬から、彼女は「マリー・キュリー」ではなく「キュリー夫人」として親しまれていきます。
4年間の歳月をかけ、2人はラジウムという新しい元素を発見します。
ラジウムの放射能は、ウランの百万倍以上もありました。
ラジウムが発する放射線は、増え続けるガン細胞を壊すことがわかりました。
この新たな治療法は、キュリー療法として知られるようになりました。
現在の放射線療法です。
夫婦はこれらの研究でノーベル物理学賞を受けます。
その後、ピエールは事故で他界。
天才物理学者でもあったピエールは、キュリー夫人の良き師でもありました。
キュリー夫人は、夫のあとを継いで女性科学者として教授を務めます。
それは当時としては、ありえないことでした。
やがて、今度はノーベル化学賞を受賞。
ノーベル賞を1人で2つ受賞したのは、キュリー夫人が初めてでした。
そして世界は、第1次世界大戦へ突入します。
X線装置の小型化に成功した彼女は、X線装置付き救急車を作り、戦争の最前線で銃弾を浴びた兵士の治療に尽力します。
解剖学を学び、自らも運転を覚え、前線と病院を行ったり来たりしながら、自分の役割を果たしていきます。
しかし、長年の放射性物質に触れてきた彼女を、原因不明の病魔が蝕んでいきました。
当時、放射能が人体に悪影響を及ぼすことを誰も知らなかったのです。
1934年、キュリー夫人の科学に捧げた人生は幕を閉じました。
彼女の功績により、核物理学は発展していきます。
しかし、何と皮肉なことでしょう。
平和のため、人類のために尽力したキュリー夫人。
現在の核エネルギーを取り巻く状況を、空の上からどんな思いで眺めているのでしょうか。
【参考文献】
ビバリー・バーチ 著
『キュリー夫人』
(偕成社)