親としてどんな姿を見せるか。
小学生時代、少年は朝早くから登校ギリギリからお父さんの農作業を手伝うのが常でした。
無口なお父さんでしたが、農業に必要な技術や知識は、こと細かに教えてくれました。
夕飯をすませると、カンテラとモリを持って一緒にウナギを捕まえに行くこともありました。
家業の養蚕を手伝い、蚕が脱皮を繰り返して蛹となり、やがて蛾となって行く過程を見る機会にも恵まれました。
堆肥作りなども手伝いました。
少年は自然科学への興味や自然現象への知識を、体験を通して学んでいくことになります。
やがて、彼は微生物由来の抗生物質を次々に発見する科学者へと成長していきます。
少年の名は大村智。
イベルメクチンを開発し、共同開発したキャンベル博士とともにノーベル生理学・医学賞を受賞した科学者です。
大村さんのご両親は、勉強を強制したことはありませんでした。
けれど、子供がやりたいことを見つけると、それが叶うような環境づくりを惜しみませんでした。
戦後まもなくの、物のない時代です。
それでも習字や絵画などの教材は、いつも絶やさぬようにしてくれていたそうです。
大村さんのお母さんは学校の先生でした。
が、終戦とともに職を辞し、養蚕業を手伝うようになります。
養蚕の技術を向上させることができたのは、毎日丹念に書き続けた母の日誌のおかげでした。
日誌には、蚕の成長記録が克明に書かれていたのでした。
お母さんが中心となって経営していった養蚕業の収入により、5人の子どもたちは全員が大学に進学することができたそうです。
一方、中学生になった大村さんは、部屋を片付けていたとき、見慣れない段ボール箱を見つけます。
開けてみると、そこには教科書とノートが30冊以上もありました。
それは忙しい農業の傍ら、寸暇を惜しんで勉強していたお父さんの通信教育の記録でした。
都立高校の夜間教師として社会人生活をスタートさせた大村さん。
やがて、東京理科大学の大学院に入学すると、昼は大学院で勉強、夜は高校教師という2足のわらじを履く生活が始まります。
結婚を機に山梨大学の助手として地元に戻ってきた大村さんにお父さんはこう発破をかけます。
「この経歴だったら将来性はない。せいぜい大学の講師止まりだろう。高校教師を続けて校長先生にでもなった方がいいのではないかと世間では思われてるぞ」と。
この言葉に大村さんは心のエンジンに火をつけることになったのでした。
のちに北里研究所の研究員になり、ノーベル賞への一歩が始まりました。
そこには、自身の在り方で見せる、父と母の姿があったのでした。
子どもの才能が花開く問いかけの魔法
子どもにどんな姿を見せますか?
【参考文献】
馬場錬成 著
『大村智物語 ノーベル賞への歩み』
(中央公論新社)