「なりたい自分」になれないあなたへ
あこがれの人にはなれません
自分で「こうなりたい」を決めると、それが「制限」になってしまうことがある。
小さい頃、お世話になった先生みたいになりたくて、先生になったという方は案外多い。
人はだれしもだれかにあこがれる。
ところが、あなたはあなた、私は私。
けっして、「あこがれの人」にはなれないからギャップに苦しむ。
そもそも、僕らの「子どものころ」とは、時代が違うわけで。
「あこがれの先生」が、今の時代に同じ輝きを放てるかというと、かなり怪しい。
「昭和」の素敵な先生が、「平成」でも輝けるかというと、それはわからないわけだ。
なにせ、「昭和」って時代は先生が偉かった時代だ。
どれだけ理不尽に暴力を振るわれようが、それは「指導」だった。
殴られる方が悪い!って感じだった。
まあ、完全に時代が違うわけ。
忙しさも違うからね。
今の先生って余裕ないじゃん。
給料も違うじゃん。
あこがれるのはいい。
でも、その人にはなれない。
そこに苦しむのはナンセンスだと思うのだ。
自分に枠をつけてしまうと苦しくなる
妻が「コネクター」と言われて、「人と人とをつなぐ役割」を意識した瞬間から、物事がうまくいかなくなった。
無意識に、自然と、無理なくやれていたことが、意識した瞬間に無理が加わる。
自分を枠の中に押し込め、「やらねば」になってしまう。
すると、「人に会わなければならない」「人をつながなければならない」になる。
途端にエネルギーが滞り出す。
僕には過去生も守護霊も見えないけれど、人のエネルギーの流れだけは感じることができる。
人間の意識っておもしろいものだなぁと思う。
「私はこういう人です」と宣言すると、それが枠になってしまうのだ。
その枠がエネルギーを滞らせる。
滞ったエネルギーを流すために、「今ここ」を意識するようにした。
ワクワクするか、しないか。
「やらねば」ではなく、「やりたいか」を問いかける。
だから、エネルギーが滞ってるなぁと思うときは、よく「しつもん」をする。
「それって本当にやりたいこと?」って。
「会わねば」ではなく、会うことにワクワクしているかが大事なのだ。
「何かになろう」「何かであろう」という枠もまた、僕らを苦しめるわけだ。
自由に生きたい
僕はいつも、どのようにしたらミヒロさんみたいに生きられるかを考えている。
だけど、ミヒロさんになりたいわけではない。
どうしたら、あんな感じで自由に生きられるのか。
いつも自分に問いかけている。
昨年、自由人の高橋歩さんにお会いしたときにも感じたことだ。
自由に生きるって、カッコいいし、ハッピーだと思う。
で、そうやって生きるためにどうしたらいいのかを、ミヒロさんから学んでいる。
彼は「上質な質問が上質な人生をつくる」という。
質問で人生が変わる?
本当だろうか?
その疑問を、僕は今、自分の人生で実験しているようなものだ。
今のところ、やはり「上質な質問が上質な人生をつくる」というのは、正解だと思う。
僕は今、お金のことをお金のメンターから学び、ビジネスをたくさんのビジネスパーソンから学んでいる。
僕はミヒロさんにはなれないので、ゼロから何かを生み出すような才覚はない。
僕の好きで得意なことは「学ぶこと」、そしてそれを「実践すること」だ。
謙虚に学び続けられることが最大の武器だと思っている。
妻はパッションテストのファシリテーターだ。
彼女は言う。
「あなた以上にあなたの人生を生きられる人はいない」と。
僕は「僕」を完成させたいし、あなたはあなたを完成させればいい。
人生とはそういうものだと思う。
だれかになろうとしたり、自分は「こういう人だ」と枠をつけたりすると苦しくなる。
どこまで行っても、自分は自分だから。
自分自身を完成させればいい。
魔法の質問
だれから学びますか?