仕事に血を通わせられるか。
過去の正解から答えを探す人々
規定に合うか。
前例はあるか。
大切なのはそこだけ。
だが、これは悪いことではない。
これらの仕事は確実にAIに取って変わられる。
行政の仕事は、案外そういうことが多い。
であるならば、将来的には職員が減り、人件費に使われる税金も減る。
社会全体で見れば、それは良いことなのかもしれない。
自ら学び、
自ら考え、
自ら行動する力。
要するに、
主体性ってヤツ。
自分の人生を主体的に生きているか。
自分の仕事と主体的に向き合っているか。
そういうことが、やはりこれからの時代には必要になる。
行政と何かをしようとするたび、これってコンピュータでいいんじゃね?って思うことがよくある。
前例主義。
これまでの前例に合わせて、
対応を決めるところなんて、
まさにそう。
物事の本質と向き合わず、
これまでの基準に合うかどうかだけを吟味する。
そういう働き方は淘汰されると思うのだ。
AIだったら許せる仕事
映画の上映会のときがそうだった。
9月1日は未成年の子どもたちの自殺が最も多い日。
だから、子どもたちのために何かがしたい!
そんな思いで始めた映画上映会。
クラウドファンディングで支援が集まり、気づけば県内8会場をキャラバンする映画上映ツアーに変わっていた。
できるだけたくさんの人に企画を知っていただきたい。
子どもたちが集まり、拡散装置となる場所。
それは学校だった。
教育委員会の後援を取り、学校でチラシを配布してもらおう。
たとえ映画上映会には来なくても、こんな活動をしている大人がいるんだ、と知ってもらえるだけでいい。
僕らはそんな思いで教育委員会に伺った。
ところが、答えはNOだった。
「講演会なら後援できるけれど映画ではできない」
とても残念だなぁと思った。
なぜなら、その教育委員会の事務所には「自殺予防」のポスターが貼ってあったのだ。
同じ思いでしょ?
えっ?それとも、ホントは子どものことなんて考えてないの?
どれだけ説得するも不発。
「映画だから後援できません」しか言わないのだ。
「映画だから後援できません」
と言い続ける職員を見て、
「この仕事、人間じゃなくてもできるなぁ」
と思った。
むしろ、人間じゃなかった許せるなぁ…と思ったのだ。
「隣に習え」の現代社会
県の対応は、
そんな対応だった。
そしたら、ビックリ。
市の後援も降りなくなった。
理由はズバリ、「県がNOだから」。
なんだよ、それ。
そんなわけで、解決方法。
まず、県への後援申請を取り下げた。
いったん白紙に戻すことにしたのだ。
そして、別の市へ後援依頼。
いろんな力を利用して後援をいただいた。
忖度バンザイ!
その後援をもって、再度NOを突きつけられた市へ後援依頼をした。
すると、あっさりOK。
理由は、ズバリ「他の市もOKしているから」。
そんな話を書いたら、ある公務員の方から、こんな指摘を受けた。
「行政は忙しいから、一つひとつの案件と向き合っていられない」
そう!
つまり、杓子定規にやって効率的に動いた方がいいわけだ。
ってことはだよ、自分たちで「僕らの仕事はやがてAIがやるようになります」と宣言しているようなものじゃん?
戸籍謄本とかの発行は顔認証や指紋認証で取れちゃうでしょ?
ほとんどの案内も自動化できるよね。
血の通わない仕事をしていると、人工知能や機械に仕事を奪われていくわけ。
ガソリンスタンドがセルフになって久しいけど、スーパーのレジなんかも自動化が進んでるよね。
仕事がなくなるってよりも、杓子定規でしか物事が考えられない人間の仕事がなくなるんだよね。
市役所に行って「困ったなぁ」って顔してると、さささっと寄ってきて声をかけてくれるスタッフもいるのね。
彼女は仕事がなくならないよね。
気にもかけずパソコンに向かい続ける人もいるわけ。
感じてないのか、感じられないのか知らないけど。
「集中してる」とかじゃなくて、気づかぬふり、みたいな人っているじゃん?
つまり、そういうことなんです。
どれだけ仕事に血を通わせられるか。
それが、仕事を失わないポイントなんです。
魔法の質問
血の通う仕事ってなんだろう?