学校のやり方が気に入りません!
「学校は何でこうなんですか?」と怒りに震えるお母さんからのメールがよく届く。
たしかに、学校のやり方は古い。
昭和のやり方を今も続けている。
でもね、僕はそれを悪いとは思ってないのだ。
今日はその話を丁寧に書こうと思う。
なぜ、丁寧に書くかというと、頭の悪い教員はこれから書くことを「学校批判」だと受け取るからだ。
ちなみに、僕は頭の悪い教員が嫌いだ。
まず、学校教育が古風なのは仕方がないことなのだ。
だって、学校は有能な従業員を生み出すシステムだからだ。
生徒会役員に学級委員、班長、副班長。
きちんと学級組織をつくり、先生からの指示を伝達する。
細かな校則は服務規程のようなもの。
先生が提示した学習課題をクリアしていく。
「要求された課題」を要求された通りのやり方で解決できる能力が評価される。
ある研究によれば、学校の成績が良かった生徒は、社会に出て革命的な何か、偉大な事業を起こす確率が低いらしい。
成績の良かった生徒は、企業の中で優秀な従業員として出世をしていく。
だから、企業から飛び出して何かをするということは少ないのだそうだ。
日本の学校教育は「優秀な従業員」を作るシステムなのである。
そのおかげで、日本は高度経済成長を迎え、戦後の焼け野原から一気に先進国の階段を駆け上ったわけである。
欠点を指摘し平均的である一面においては大変優秀な大人を育てた結果、この国は総中流社会を作り出した。
幾多の震災、大型台風、いろんな逆境も、その度にこの国はみんなで立て直してきた。
この国の教育、僕は間違ってはいないと思う。
ただ、今のやり方は従業員を多く生み出す仕組みになっているというだけのこと。
けれど、こういう話をすると、学校の先生の中には憤りを感じる人間がいる。
だから、頭の悪い教員は嫌いだ。
従業員はダメなのか?
大半の人間は従業員だ。
だいたい学校の先生だって従業員だ。
校長先生だって経営者ではない。
彼らも従業員だ。
じゃあ、従業員はダメなのか?と問われたらダメではないはずだ。
経営者と従業員。
どちらが上で、どちらが下ということはない。
どちらもこの世界には必要だし、どちらにも向き不向きがある。
だから、いつもお伝えしている。
学校に行きたい子は行けばいいし、行きたくない子は行かなければいい。
学校が好きな子は、組織の中で、ある程度の規律の中で生きていく資質がある。
学校が苦手な子は、フリーランスで自由に働くことが合っているかもしれない。
決められた時間に決められた場所で働く人もいれば、それが苦痛の人もいる。
みんな違うわけだけど、学校教育はできるだけその個性を消して「みんな同じ」であることを好む。
仕方がないことだ。
1人の先生で40人の子どもたちの面倒を見るのだ。
文句があったら、お前やってみろよ、と言いたい。
先生なんて、ただの人。
ある程度「管理する」のは仕方がないのだ。
もちろん、それがすべてではない。
僕のブログやメルマガの読者さんは、「それを変えたい!」と願ってる熱い先生が多いはずだ。
そして、その熱い志しのせいで、苦しんでいる先生も多いわけだ。
「学校はおかしい!」と憤る前に立ち止まってほしい。
そもそも学校はそういうところだ。
「学校教育」は国の施作であるわけで、この国にとって都合のいいようにデザインされている。
だって、国や県、市がお金を出してるんだもん。
そうなるよね…。
それ、普通だと思うよ。
で、「学校はおかしい!」と叫ぶお母さんに僕はこんな質問をする。
じゃあ、いいじゃん!
大切なのは子どもの気持ち。
大人であるあなたの価値観に合わなくても、子どもが喜んで行ってるなら、何も問題なんて起きてないじゃん?
「学校に行きたい子」は行けばいいし、「学校に行きたくない子」は行かなければいい。
「部活動がやりたい子」はやればいいし、「部活動がやりたくない子」はやらなければいい。
要は「選択させろ!」ってことさ。
そして今、社会に求められてるのはさ、「学校に行きたくない子」に、「んじゃ、こんな場所があるけど行ってみないか?」と別の選択肢を用意することだとおもうんだよな。
学校ごときで、俺たちの人生が決まるわけね〜じゃん!
人生を選ぶのは自分自身だよ。