欠点があるから夫婦はうまくいく
我が家を一つ例に出しましょう。
妻は洗い物が苦手です。
手荒れがひどいということもあり、あまり洗い物をしたがりません。
朝食の用意をすると、調理器具はそのままシンクのもとへ。
片付けぬまま昼食の支度が始まる。
もちろん、それもそのままシンクへ。
言うまでもなく、今度は夕飯の支度が始まる。
おかげで、僕が仕事を終えて帰宅すると、台所には山盛りになった茶碗やお皿、そしてフライパンやら鍋やらが積み重なっていくのです。
結婚当初、僕は何度も訴えました。
「衛生的な環境で作られた食事が食べたい」
その言葉は僕の幼い日の記憶が言わせた言葉でした。
幼少期から身体の弱かった僕は、少し傷んだものを食べるとすぐに身体中に発疹ができました。
いわゆる蕁麻疹というもので、虚ろな目で病院の天井を見上げながら点滴を打つ。
そんなことを幾度も繰り返してきました。
大人になって、もう蕁麻疹が出ることなどなくなりましたが、未だにそのときの記憶が残っているのです。
ですから、「衛生的な環境で作られた食事が食べたい」という言葉が口を注いで出ました。ところが、彼女と来たら「だって、できないもん」と言うのです。
僕が苦言を呈したことの一つに「調理器具が多すぎる」ということがありました。
フライパンや鍋が多すぎる。
棚に入りきらない。
それで僕は「そんなにいらないじゃないか」と伝えました。
けれども、彼女もゆずらない。
フライパンや鍋はこのぐらい必要だと主張します。
お互い平行線のままです。
フライパンや鍋が少なければ、洗わざるを得ない。
そう考えたのだけれど、なかなかわかってもらえず、僕は苛立ちました。
でも、気づいたのです。
彼女は洗い物が好きではないのです。
だから、朝食、昼食、夕食と作らねばならない彼女にとって、大量のフライパンと鍋は洗い物をせずに調理をするために必要な物だったのです。
こうして、今日もシンクの中に大量の食器と調理器具。
仕事を終えて帰宅すると、冷蔵庫から1本、缶ビール。
否応なしにシンクの様子が目に飛び込んできます。
内心、(またか…)と思いながら、僕は自分に問いかける。
「このシンクをきれいにしたいのは誰だろう?」
答えはとてもシンプルです。
きれいにしたいのは僕です。
すると、新たな問いが生まれる。
「では、このシンクをきれいにできるのは誰だろう?」
やはり、答えはとてもシンプル。
きれいにできるのは僕しかいない。
最後にこんな問いを投げかける。
「今、あなたにできる小さな一歩は何ですか?(笑)」
そんなわけで、僕はスポンジに洗剤をつけると、そそくさと洗い物を始めるのです。
もちろん最初は(なんで俺がやらなきゃいけないの?)なんて、心のどこかで思っていました。
今だって、思っています。
でもね、僕は心地よい空間で暮らしたい。
人生って大切にしたいことを大切にすればいいのです。
愛する人と愛することができればそれでいいのです。
僕は清潔感のあるキッチンで作られた妻の手料理が食べたい。
ならば、僕がきれいにすればいい。
とてもシンプルな夫婦の形です。
僕らにはみんな、欠けたところがあります。
欠けたところを欠点と呼び、その欠点を直そう直そうとしてきました。
「そんなことではダメだ」と言われ、「努力しなさい」と言われてきました。
でもね、それ、あなたの持ち味です。
欠けたところを自分の努力でなんとかしてもらおうとするのはやめなさい。
欠けたところは他の人に補ってもらえばいいのです。
パズルのピースを思い出してみてください。
欠けてるところと出っ張ってるところがある。
そこが組み合わさってパズルは完成します。
家庭だって同じです。
足りないところは補い合う。
欠けてるところが重なり合うポイントではないですか。
もしも完璧な人間になってご覧なさい。
これほどつまらない人間はおりませんよ。
だって、僕らは一人では生きられない生き物。
そのためにコミュニティーをつくる。
そのために家族をつくる。
欠けたところをなくした、誰もあなたとつながりをつくることができないではないですか。
だからもう、あなたはがんばってはいけないのです。
どうせエネルギーをかけるなら、苦手なことをがんばるんじゃないの。
「できないこと」を「できない!」って言うことをがんばってみてほしいのです。
妻が美味しい料理をつくる。
僕が洗い物をする。
妻が疲れちゃったとき、お出かけしたときは僕が料理をつくる。
もちろんその逆だってあるでしょう。
補い合えばいいのです。
それが夫婦というものです。