自己肯定感は「自信」の有無を指標にしてはならない。
「自己肯定感」を「高い・低い」で語ることが間違っていたのかもしれない。
わりと「自己肯定感」というものを、「自信」を基準に語っていることが多い。
何にでも挑戦する自信満々の人を「自己肯定感の高い人」と理解し、「自信ないです…」って人を「自己肯定感が低い」と解釈しているところがある。
「自己肯定感」とは何か。
もう少し紐解いてみたい。
ある人がこんなことを言っていた。
「自己肯定感は自信のある・なしは関係ない」と。
「自信」の「ある・なし」の基準は、他者との比較や評価である。
「あの人と比べて上手い!」
「この人からも評価されている」
そんなことで「自信」は生まれる。
クラスで最も下手で、先生からも酷評されているのに、「俺は自信があります」と言ったら、やっぱちょっとおかしくね?ってなる。
「絵」には自信があって、「スポーツ」には自信がない子がいたとして、絵を描くときは自己肯定感が高まり、スポーツをするときは自己肯定感が低くなって自己嫌悪に陥るとしたら、やっぱりおかしい。
場面や課題によって、上がったり下がったりするものではない。
んじゃ、自己肯定感とは何か。
実は「自己否定が少ないこと」を言うのだそうだ。
ちなみに、「自己否定がない」ということはないらしい。
誰もが「自己肯定」と「自己否定」を有している中で、「自己否定」の割合が少ない状態を言う。
だから、「自己肯定感が高い」と言う表現はおそらく不適切で、正確には「自己肯定感を感じている」ぐらいが適切なのだと思う。
要するに自分の存在を肯定的に捉えているよ、ぐらいの話なのだ。
前述の「絵」には自信があって、「スポーツ」には自信がない子がいたとしたら、「絵を描くこと」はもちろん楽しめるし、苦手な子には快く手を差し伸べることができる。
苦手なスポーツも、下手は下手なりに楽しめるし、それなりに努力してうまくなろうとする。
まー、つまり、人生を楽しめるわけだ。
一方、自己肯定感を感じていない人は、自己否定をしている人である。
早い話、「自分なんてダメだ」と思っている。
ところが、である。
その状態は心の奥の奥の深い部分では「自分を否定したくない」「自分を認めてほしい」という思いが高まってくる。
自分の価値を上げるために、過剰にがんばろうとするのである。
自己肯定感を感じている子が、自然に努力をするのに対して、他者に認められたいがために努力をする。
この場合、この「がんばり」は、「自責型」「他罰型」に分けられるそうである。
「自責型」は「自分なんて…」と自らを責める。
僕らがイメージする自己肯定感の低いタイプは、このタイプであり、弱々しく見える。
一方、「他罰型」は先手をとって優位に立つために乱暴な言葉や高圧的な振る舞いをする。
パワハラをする人、クレーマー、いじめっ子というのがこちらのタイプである。
これらの根底にあるのは「認められたい」という欲求である。
僕は児童生徒に過剰に指導するタイプの先生も、こちらに部類されると思っている。
やたら最新の教育機器や教育技術を持ち込み、できない生徒を否定し、できない先生を否定し、あたかもカリスマ風に振る舞いながら、生徒にも同僚にも信頼されない先生がいたことをふと思い出した。
他者に認められるためにそれをやっているのか、それとも好きでそれをやっているのか。
そんなところも自己肯定感の有無を知るうえで重要な指標なのかもしれない。