「がんばってるね」と言われるたび、俺はがんばってるのかね?と思うんだよ
「くれちゃん、がんばってるね」
って言われるたび、(俺って、がんばってのかな?)って思う。
まったく「がんばっている実感」がない。
僕は僕がやりたいことをやりたいからやっている。
「誰かから褒められたい」とか「誰かに認められたい」とか、ない。
好きでやっている。
やりたくてやっている。
仕事だって、日付が変わるまで職場でパソコンを叩いてる。
それを見て、「くれちゃん、がんばってるね」って言う。
いやいやいやいや。
俺はがんばってない!
好きでやっている。
この他人から「がんばってるね」って見えること。
これを「そんなことないっす」と言うタイプと「そうなんですよ」って言うタイプがいる。
んで、これは今日は話題にしない。
問題は「誰も俺のがんばりを評価してくれね〜!」って不満を抱えているタイプだ。
今日はこっちを話題にする。
僕はそういう先生を見るたび、「そんなに認められたいかね?」と思ってきた。
(認められたら仕事増えるだけじゃね?)って思ってたんだよね。
そんなに高い評価を受けたって、別に給料が増えるわけじゃないしさ。
その分、仕事だけ増やされるわけで、評価されるのって美味しくない。
僕にとって、他者の評価って、その程度のものだった気がする。
そんなことより、「好きなことをやっているか」が重要だった。
誰かに評価されたくてやるのと、自分の内的動機からスタートするのとでは全然違う。
評価されなくてもいい。
好きでやってんだ。
その感覚をもてたのは、たぶん僕が自己肯定感ってヤツが高いからなんだろう。
「俺は俺がやりたいようにやる」って決めて教員になったし、「嫌だったら秒で辞めてやる」と思い続けてきた。
生徒に「何しに学校来てるんですか?」って尋ねられて「遊びに来てるんだよね」って答えたことがある。
生徒から「わかる気がする」って言われた。
嘘じゃないよ。
本気の本音。
俺は楽しむために学校に行っていた。
だからこそ、最高に楽しい授業がしたかったし、最高に楽しい学級にしたかった。
だって、遊びに行ってんだもん。
つまんかったらつまらないじゃん。
思えば、「ちゃんとした先生」を目指したことがなかった。
誰かに評価されたいと思ったこともなかった。
ただ、好きにやっていたら、みんなが評価してくれた。
いっぱい教育論文を書いてきたけど、それだって認められるためではなく、書いていることが好きだった。
すべてが遊びだったんだよね。
だから、深夜まで働いてても全然苦しくなかった。
それは今も変わらなくて、ずーっと働いているけれど、別に苦しくはない。
好きでやってんだもん。
「好きを仕事にする」が流行ってるけど、「仕事を好きになる」方がいいんじゃね?って思う。
「すごいね」とか「がんばってるね」とか、そういうの、求めているってことはどっかに満たされない何かがあるんだと思う。
その先に進んだら、そこは気にならねえんじゃねえかな、って思う。
「俺はこんなにがんばってるのに、誰も評価してくれない!」
ってのはさ、まず自分で自分のことを認めてあげられてない状態なんだろうな。
子どももさ、好きなことやらせた方がいいよ。
親や先生の評価を喜びにさせちゃダメね。