なぜ勝敗が決した後、ラフプレーは起こるのか。
サッカーの試合を見ていると、ラフプレーが起こるのは「勝敗が決した後」であることが多い。
僅差で競り合っているときにこそ、ギリギリのプレーをしているので、そうなりやすそうに見える。
だが、実際はそうではない。
勝敗が決するほど大差がつき、あきらめたとき、自分の心を律することができずに、ラフプレーに至る。
イライラして反則を犯す。
この意味について考えたい。
僕らが間違いを犯すのは自分の気持ちをコントロールできなくなったときだ。
いわゆる感情的になって、ついつい手を出す、ついつい足を出す、ついつい暴言を吐く。
本来であれば理性でコントロールできるところ、感情が理性のコントロール量を越えてしまうのである。
これは自己肯定感と大きく関わりがあると思う。
自己肯定感は、絶対的なものではなく、時と場合によって揺らぐものである。
スポーツの試合において大差がつけば、これはいわゆる自暴自棄になりやすい状態だ。
つまり、自己肯定感は低くなり、自己否定の塊になる。
負けゲームを消化していくのだ。
「ダメな自分」をまざまざと見せつけられる時間になる。
こうなると、自分をコントロールすることが困難になる。
いじめが起こるのも、この自己肯定感の低さと深く関わっている。
いじめられる側が弱いのではない。
いじめる側が弱いのである。
弱いからこそ、さらに弱いものを叩く。
叩くことで、自分を肯定しようと試みる。
これもまた、人間関係におけるラフプレーと言える。
自己を否定している状態のとき、僕らは冷静な判断ができなくなる。
このことを心に留めておきたい。
怒り、悲しみ、不安、その他のあらゆるマイナスの感情は、いつも心の制御装置を外そうとする。
人を獣に変えようとするのだ。
さて、自己肯定感が高いと、内的動機に結びつけやすいと言われている。
自分の内側にある「こうしたい」「ああしたい」という思いに純粋でいられる。
いわゆるフローになりやすい状態である。
一方、自己否定に陥ったときは外的動機に結びつきやすい。
外側の刺激に反応して生きることになる。
「あの人がこういったから私はこうなった」
「あのニュースを見て腹が立つ」
こんな感じだ。
オリンピックを見た人たちからの、選手に対する誹謗中傷が後を絶たないらしい。
なんとも悲しいことである。
だが、不愉快な気持ちになった人からしたら、「この選手を見て、自分は不愉快になった」とでも思っているのだろう。
「反応で生きる人」は、「外界の刺激」で感情を揺さぶられ、自分をコントロールできないでいる。
誹謗中傷が後を絶たない時代となって久しいが、それでもなお誹謗中傷をやめられない人たちがいる。
ある意味では誹謗中傷依存症と呼んでも良いだろう。
他者を叩く人ほど、自分自身に否定的なのかもしれない。