僕がいじめと自殺の話で考えたこと
市の自殺対策委員を務めています。
精神科の先生や大学や高校の先生、行政の方々などが参加する会議です。
そこでは、いろんな事例が報告されたりもするのですが、それを聞いていると、「いったいどうしたら防げるのだろう?」と思うことばかりです。
心を病んでしまう人と、その人と懸命に向き合う人々。
そのやりとりに頭が下がるとともに、「彼らに何ができたのだろうか?」とも思ってしまいました。
その問いに答えがあるように思えないのです。
うまくやれば防げる、というものには思えず。
それこそ手足を縛り付けておくぐらいしか妙案は思い浮かばず。
その案件に関わった無数の人たちは、どれほどやりきれない思いを味わったのだろう?と、そんなことばかり考えてしまいます。
僕が一貫して主張しているのは、人間の心というものは壊れてしまってからでは修復は難しいということです。
心が壊れる前にケアしなきゃいけないんですね。
僕も過去に心が壊れてしまう経験をしました。
今ではその件を夢に見る、なんてこともなくなりましたが。
それはもう、性格的なものとか、家族の支えとか、そういうものでなんとか騙し騙し今日までやってきただけ、のようにも思います。
時折、心が苦しくなって、すべてを投げ出したくなって。
そんな衝動に襲われることもあるのです。
だから、心をすり減らす前に、なんとかしなければならない。
身体だって倒れる前に休まなきゃいけないでしょう?
心も同じなんです。
倒れる前にちゃんと休ませなきゃいけません。
だから、それに気づくことができる仕組みを作らなきゃいけないんです。
「あ、あの子、今、しんどそうだな」とみんなが気づいてあげられる仕組みです。
そして、必要なケアをしてあげられる仕組みです。
そのために、アプリを開発しました。
昨日、興味深い話がありました。
いじめの一つの対策として、「教師ではなく子どもたち側でいじめを認知する」ということに目標値が設けられ、その割合を増やしたいとのことでした。
それで出された意見として、それは「重要なことなのか?」というのがありました。
つまり、先生がいじめを認知するよりも、子どもたちが認知できた方が良い、と。
「おい、それっていじめだよ」って子どもたち同士で言える、そんな環境です。
別に先生が発見しても、それはそれで良い気もします。
目標値を設定する必要はないように思いましたが、まー、これはなかなか面白い視点だな、と思いました。
それよりも、「そういう組織を作るにはどうしたら良いか?」について、もう少し掘り下げられたら面白いかもな、と思ったんですね。
いったい、どういう取り組みをしたら良いか、という具体案です。
組織の中で人間関係のトラブルが起きたとき、リーダーが発見してリーダーが解決に乗り出すのではなく、そこにいるすべての人が目となり頭となり、「それ、おかしくね?」と言える空気感を作っていく必要があります。
そのために、何が必要なのか、どんな取り組みができるのか。
僕にできることは、まだまだありそうだと思いました。