誰かの行動に腹が立ったときはどうすれば良いか
なぜ人は怒りを感じるのか?
怒りは二次感情と言われている。
その怒りの奥には、不安や淋しさ、悲しみ、不甲斐なさなど、いろんな感情があって、怒りはそれらが爆発して起こる。
だから、怒っている人を見るときは、その怒りの奥に何があるのだろう?という問いをもちたい。
ガチャガチャの前で、小さな子どもが癇癪を起こしている。
「ママ、買って」と泣き叫んでいる。
この子はただ単に「ガチャガチャが欲しい」から怒っているのではない。
ママに言うことを聞いてもらいたいのである。
幼い人は、このような自分の中にある欲求を自己処理することができない。
怒りはこの「欲求」の自己処理がうまくできないことで引き起こされる。
こういう人は大人の中にもいる。
本当の大人というものは、自分で自分の怒りを処理できる人である。
腹が立つのは人間だから仕方があるまい。
問題はその怒りをちゃんと自分の中で処理できるかということである。
「ムカつく」と言って他者を傷つけるのは魂が幼い人間であり、その気持ちを自己処理できるのが人格者である。
もしあなたが日々の暮らしの中で怒りを感じることがあったならば、そのたびに立ち止まって怒りの奥にある感情に目を向けてみるといい。
折り合いをつけるのは、いつも自分の心だ。
夫婦喧嘩と仲直り
ウチの夫婦は、取り立てて夫婦喧嘩というものをしたことがない。
どちらかが怒り、「ふーん」と受け流し、なんとなく終わる。
よくよく考えると、仲直りということをしたことがない気がする。
夫婦喧嘩は犬も食わぬと言うけれど、生まれた場所も育ってきた環境も違う二人が一つ屋根の下で暮らしていれば、衝突することなどあって当たり前である。
喧嘩というものは相手に対して怒りを感じるから勃発する。
仲直りせず喧嘩が終わるのは、相手に対する怒りを自分自身で癒してしまうからだろう。
怒りは「無謀に始まり後悔で終わる」と言われている。
カッとなって爆発するけれど、後になって「なんであんなことで怒ってしまったのだろう?」と後悔して終わる。
後悔のあとに残るのは、「ちっぽけな自分」という存在だけである。
後悔することがわかっているのだから、怒りはやはり自己処理できることが望ましい。
誰かを怒らせてしまったら
他人を怒らせてしまうと、「自分が怒らせてしまった」と自分を責めてしまう人がいる。
だが、怒りはどこまでも個人的なものだと気付かされる。
自分の行為に対して相手が怒りを感じているわけで、感じているのはあくまでも相手であって、私にはどうすることもできない。
その怒りの処理は、本人自身が自分と向き合うことでしか不可能なのである。
謝っても謝っても許してくれない、なんてことがある。
そういうことは、まさに怒りの処理ができない人間を相手にしているときに起こる事例であり、相手が怒りという感情を自己処理できない人間だと理解できる。
このように考えると、本当の強さとは「赦すこと」ができることである。
炎上する人、炎上させる人
以前、TikTokで若い女性が「年収850万円以下は社会のお荷物」という動画を配信して炎上した。
コメント欄は誹謗中傷の言葉に溢れ、そこには憎悪が詰め込まれていた。
僕はあの炎上騒動を見て(そんなにも腹が立つかなぁ…)と思った。
見ず知らずの、自分とは一切利害の重ならない、完全なる赤の他人の言動に怒りを感じることができる心のメカニズムに興味があった。
一体これを炎上させている人たちの怒りの奥にある感情のマグマは、どんな感情なのだろうか、と。
そこには、社会そのものに対する鬱屈した思い、不安、不満、コンプレックス、その他さまざまな思いが複雑に絡み合っているに違いないわけで。
そういってものを持ち合わせていない僕は、その動画を見ても「怒り」を感じることは不可能で、(そんなにも腹が立つかなぁ…)としか思えなかったのである。
怒っている人を見ると幼く見える。
それは、怒りの自己処理ができない幼い魂の証明だからである。
公園やショッピングモールで癇癪を起こしている幼い子どもを見かける。
子どもだから許されることである。
電車のホームやスーパーのレジで怒っているお年寄りを見かける。
年齢を重ねても幼い人は幼いわけで、怒りの自己処理ができない人は人間として幼く見える。
怒りは自分で処理するものである。
他者にぶつけ他者を傷つけるものは、幼い人であって人格者とは言えない。
腹が立ったときは一歩立ち止まって考えたいものだ。
そうそう。
「自分が正しい」と思ったときほど、一歩立ち止まって考えた方が良い。
「正しい」という漢字は、「一度立ち止まる」と書くのはそのためである。