「話し合い」が深まらないのは「話すこと」のし合いだから
「話し合い活動」って、本当に意味がありますか?
学校でよく行われる「話し合い活動」。
机をくっつけて話し合う。
授業に学活に道徳に。
よく用いる手法です。
あれって、本当に深まっているのでしょうか。
僕もよく班をつくって話し合うんです。
それで、一定時間話し合ったら子どもたちに問いかけます。
「今の話し合いで印象に残った友だちの言葉を紹介してくれる?」
すると、おもしろいことに、ほとんどの子が覚えてないんです。
あんなに一生懸命、クラスメイトが話をしていたのに、覚えていないのです。
話し合ったことを覚えていない理由
「話し合い」って「話」を「し合う」んですね。
子どもたちはちゃんと言われたことをやっています。
「◯◯について話し合いなさい」なんて課題を出せば、ちゃ〜んと「◯◯」について、自分の考えを話すんです。
だけどね、「話し合い」だから、聞いてないんです。
一生懸命、「話」を「し合う」から。
よ〜く見ていると、同じ班の子が話をしている最中も、一生懸命何を話そうかなって考えてノートにペンを走らせている子がいるんです。
でも、それって悪くない。
子どもたちは一生懸命、自分が何を話そうか、考えているんです。
どんな風に話したらいいかって考えるんです。
だけどね、だれも聴いてない。
一応、賢い子は聴いてるフリはしてくれる。
でもね、全然聴いちゃいないんです。
聴いたフリしながら、自分の番が来るのを待っている。
脳みそは、「何を話そうかな?」って、何度もリハーサルを繰り返しているのです。
聞き手がいないのに話さなきゃいけない。
こんなに苦痛なことってないなって思います。
「こうでなければならない」を捨ててみる。
でも、やっぱり「話し合い活動」って昔からあって、僕らもそういう教育活動が、正しいことだと思ってしまう。
そうやって、昔から「いい!」って言われている方法を選ぶ。
すると思考が停止するんです。
「こうでなければならない」って感覚を手放せるといいですね。
「学校はこうでなければならない」
「先生はこうでなければならない
「授業はこうでなければならない」
そういうのが、教育活動を小さくまとめてしまうと思います。
昔からやっているから「話し合い活動」は素晴らしい!
それを疑ってみる。
昔からやっている「話し合い活動」だけど、あれって意味あるの?
そんな思考をしていくことで、目の前の子どもたちにピッタリの教育活動は見つかるのだと思います。
ハッピーな先生になるためのステップ
今まで「いい」とされてきたものを疑ってみる