人間関係があればこその「俺、そういうの、好きじゃねーわ」
「俺、そういうの、好きじゃないな」
僕は女の子たちにそう声をかけた。
あれは今からもう20年も前の話になるか。
僕のクラスにちょっと悪い意味で目立ってしまう女の子がいた。
運動が苦手で走るのが遅いだけでなく、よく転ぶ。
授業中も手を挙げて発言するのだけど、発問をよく聞いていないのか、明後日の方向の答えを言う。
そのたび、教室の中に失笑が漏れる。
いわゆる「からかいの対象」になりやすい子だった。
それで水泳の時間、僕はたまたま授業がなかったので、プールサイドで子どもたちの様子を眺めていた。
その日は、特に女子生徒の見学者が多く、「見学」と称しておしゃべりに花を咲かせていた。
それで、クラスでもちょっと目立つ女の子たちが、その女子生徒に声をかけた。
「◯◯ちゃんってさ、◯◯くんのこと、どう思うの?」みたいな話をする。
すると、その子も調子に乗って「◯◯くん?別に興味ないな」とか、大きな声で答えてしまう。
とにかくその声が無駄に大きい。
水の中で待機している子どもたちも丸聞こえなのである。
「じゃあ、◯◯くんは?付き合いたいとか思わないの?」
「えーっ!付き合いたくない!」
何もわからず聞いていれば、それはただの恋バナなんだけど。
聞いている僕は不愉快な気持ちになった。
その女の子をからかっているのは明白なんだけど、その子もその子でそういう空気は読めないので、とても大きな声で男子を馬鹿にしたようなことを言う。
プールに入っている男子たちは面白くないわけだけど、僕の目もあって気にせぬ素振りを見せる。
そんな僕が近くにいるのに、彼女たちも「◯◯くんのことはどう思う?」「◯◯くんは好き?」と尋ねてゲラゲラ笑っている。
その醸し出す雰囲気は悪意が満ち溢れているんだけど、言葉だけにフォーカスすれば、ただの恋バナであり、「私たちは悪くないわよ」と堂々と話している。
それで僕は、「あのさ、なんかお前らの会話、俺は好きじゃねーな」とつぶやいた。
そしたら、そのからかわれている方の彼女が「私たちは楽しく話してるだけです」とか言うのである。
からかってる側は賢くて、僕の、「あのさ、なんかお前らの会話、俺は好きじゃねーな」ですべてを察し、「しまったな」という顔をしている。
からかわれている側の「私たちは楽しく話してるだけです」に内心イラっとしながら、「そういうの、デカい声で言われた男子の気持ち、考えろよ」と伝えた。
それで男子も幾分、溜飲を下げた様子だった。
その子のために言った言葉ではなく、こちらはプールの中で男子たちの気持ちを鎮めるために伝えた言葉だった。
いじめの指導って簡単じゃないよな、といつも思う。
テレビドラマのように、顔に落書きしたり、あからさまに暴力を振るったり、そういうわかりやすいのって、ほとんどなくて。
だいたいは微妙なラインを突いてくる。
だから、いじめる側は「からかってるだけです」とか「遊んでるだけです」とか言いがち。
いじめられてる側も、「いじめられている」と思う子もいれば、「楽しくやってるのに邪魔しないでよ」的なニュアンスで捉える子もいたりして。
どこからが「いじめ」で、どこからがいじめじゃないかって線引きは、案外難しいものだったりする。
「感じ方」という曖昧なラインに「指導」という直線を引くのはなかなか困難な作業なのである。
そんなわけで、僕はやっぱりいじめる側が醸し出す、嫌な雰囲気ってのを敏感に感じ取っていたわけだけど、この嫌な雰囲気ってのはあくまでも嫌な雰囲気なわけで、「指導の対象」にはしづらい。
「あなたたちは嫌な雰囲気なので、嫌な雰囲気はやめましょう」と指導するのは、曖昧なラインに直線を引く感じで、なんだかぼんやりした指導になる。
ぼんやりした指導って信頼を失いやすい。
それで僕は、「なんか好きじゃねーな、そういうの」とよく話していた。
「感じ方」には「感じ方」で返す。
この方が伝わりやすい気がするんだよね。
で、これって子どもたちと人間関係ができていないと通じない。
ちゃんと人と人との関係ができているからこそ、「俺、そういうの、好きじゃねーわ」と伝えると、それで「しまったな」という気持ちになってくれる。
生徒指導って声の掛け方とか立ち振る舞いよりもさ、先に人間関係作りなんだよな。
人間関係ができてたら、「俺、そういうの、好きじゃねーな」で伝わるんよ。
だって、子どもって馬鹿じゃないもん。
悪いことしてるときは、やっぱり心のどこかで罪悪感ってのを感じててさ。
それでも楽しいから、ちょっとやっちゃう。
だから、「俺、そういうの、好きじゃねーな」の一言で、その罪悪感をプッシュしてやって、ハッと我に返るんですわ。
やっぱね、人間関係なのよ。