教えることが『愛』ではないよ
「話したいこと」と「聞きたいこと」のギャップ
「子どもたちに信頼される先生になりたい」
子どもたちに信頼される先生になるために僕らはどんどん子どもたちに近づこうとします。
子どもたちのことを知るために、僕らはどんどん近づこうとします。
それが寄り添うことだと勘違いしてしまいます。
でもね、近づけば近づくほど見えなくなるんです。
相手のことを知ろうとする。
一歩下がって眺めたら全体が見えるのに、どうしても近づいてしまいます。
それが子どものためだと思ってしまう。
「子どもの話を聞こう」とする気持ちは、僕らの内側から生まれたもの。
子どもたちから話を聞くとき、僕らは自分たちが聞きたいことを聞いてしまいます。
それは必ずしも子どもたちが話したいことではありません。
子どもたちの話したいことと、あなたの聴きたいことが一致するとは限らない。
そのギャップは、子どもたちとの『つながり』を壊してしまうのかもしれません。
教えることが大好きです。
僕らは相手が求めていないのに教育をしてしまう習性があります。
僕たち大人は、それが学校であっても家庭であっても、子どもたちにとって『お節介なコンサルタント』になってしまうことがあります。
求めていないアドバイスを送ってしまうのです。
たとえばね、勉強ができなくて悩んでいる子がいます。
「私、また点数悪かったんだ〜。がんばったのになぁ〜」
こんなとき、『お節介なコンサルタント』は、教育活動をスタートします。
「もっとこうしたらいい」
「努力が足りないのよ」
「私だったらね」
子どもたちが求めていることはなんでしょうか?
それはただただ聴いてほしいだけかもしれません。
ですが、先生も親も子どもたちにアドバイスを送ります。
子どもたちは、本当にそのアドバイスを求めているでしょうか?
何気なく話したのに、求めてもいないアドバイスが返ってくる。
そんなことがあったら、二度と話したくないと思いませんか?
僕にも経験があります。
僕のブログやメルマガを読んだ友人が、何のためにやっているのかと尋ねられたことがありました。
「世界中の先生を子どもたちに愛され、保護者に応援される先生にしたい。そんな先生をハッピーな先生と呼んでいるんだけど、そんな先生が増えたらきっとそこで学ぶ子どもたちもハッピーになると思うんだよね」
僕は、いつもメルマガやブログで書いていることをそのまま伝えたつもりでした。
聞かれたから答えたんです。
ところがどうでしょうか。
みんな、寄ってたかって「できない理由」を教えてくれます。
「そんなのは無理だ」
「起業なんて失敗する」
「一度、一般企業に勤めて、ビジネスを学んだ方がいい」
「学校の先生は、ビジネスを知らない」
ありがたいことに、「最近の学校は…」というインターネットで仕入れた情報まで教えてくれました。
「話したくて話したわけじゃないのにな…。聞かれたから答えただけなのにな…」
そのとき僕はとても悲しい気持ちになったのを覚えています。
怒りは感じませんでした。
ただただ悲しい、そんな気持ちだったのです。
聞かれたから答えただけなのに、理解されない。
子どもたちだってきっと悲しい気持ちを味わっていると思うのです。
本当のニーズを探る
「お父さん、眠れないよぅ」と我が子が言うことがあります。
そんなとき、僕だって『お節介なコンサルタント』になってしまうことがあります。
「昼寝するから眠れないんだぞ!」
「朝起きるのが遅いからだ!」
「布団に入っていらば眠れるよ!」
子どもたちは、そんなアドバイスを求めていないのに。
どうして教えてしまうのでしょうか。
先日、NVCのトレーナーのホルヘさんが大切なことを教えてくれました。
「僕らは教えることを『愛』だと思っている」
「あなたのことを思って言ってるのよ」
でもね、相手が本当に求めていることに目を向けないことが、本当に『愛』なのでしょうか?
「眠れない」という我が子。
ただそばにいて、眠るまで一緒にいてほしいだけかもしれません。
もう少しだけ話を聴いてもらいたい、それだけかもしれません。
子どもたちは、表現が不器用です。
言語化されていないところに隠されていること。
「この子が本当に望んでいることはなんだろう?」
そこに目を向けると「お節介なコンサルタント」を廃業に追い込むことができます。
寄り添うって、そういうことなんだと思います。
ハッピーな先生になるためのステップ
子どもの言語化されていないニーズを見つめてみる。