魂は「2層コート」に包まれている。
ありのままの自分につながる自己共感
魂、本心、本音、心。
呼び方はなんだっていいのだけれど。
僕らの真ん中にはたしかに何かが存在します。
「ありのままの自分」
そんな呼び方をしてもいいでしょう。
僕は「魂」って言葉がしっくりきます。
その「魂」に従って行動するとき、僕らは思わぬ力を発揮します。
それはなぜでしょうか。
あっ!ちなみにスピリチュアルな話がしたわけじゃありませんので。
思考と感情の2層コート
我が子が赤ちゃんだったころ。
そう、生まれたばかりのころ。
オムツを替え、おっぱいをあげ(僕はあげてないけど)、ゲップをさせ。
ただただ、心から愛おしくて。
僕の魂は自然に、そう…いかにも自然に、子どもたちの成長をサポートてしていました。
ところが、です。
魂は感情に包まれています。
好きとか嫌いとか。
快不快とか。
「なんとなく」ってあるじゃないですか。
「なんとなく食べたくない」とか「なんとなくやりたくない」とか。
それが感情ってヤツでして。
そして、さらにその外側を思考という名の鎧に守られています。
思考の鎧は薄くて硬いの。
価値観という鎧。
固定観念という鎧。
常識という鎧。
強固な鎧で守られているのです。
我が子が生まれたばかりのころ。
僕らは、魂に従って、ただただ愛の人となって、子どもの育ちを支えていました。
テンションあげて、モチベーションあげて、気持ちを奮いたたせてオムツを替える人はいません。
「私はできる!私はできる!」
自己暗示をかけてから、おっぱいをあげるママを見たことはありません。
「いいお母さんに見られたいから」と思考して、あやしたりはしませんし、「オムツは替えるべき」と思考して、替えたりはしません。
替えてあげたくて替えるし、汚れたままじゃかわいそうだから替えるんです。オムツを替えることですら、魂の志事でした。
魂を覆い隠しているものの正体を知っておく
我が子が生まれたばかりのころ。
僕らがただただ愛の人だったころ。
思考と感情の2層コートを突き抜けて、僕らは魂とつながっていました。
魂とつながったとき、僕らはただの愛の人になります。
目の前のこの子が幸せならばそれでいい。
それが愛の人。
それなのに、いつのまに思考と感情の2層コートは僕らが愛の人になることを阻害します。
だから、目の前の子どもの素晴らしさを忘れさせたり、むやみに競わせたりしてしまうわけですね。
目の前にいる子どもたちは、この子がこの子であるだけで素晴らしいんです。
それを取りもどすだけでいいんです。
ハッピーな先生になるためのステップ
2層コートを突き抜けて、魂とつながったら愛の人