小1に読書感想文を宿題として出す意味がわからない
小1の次男坊が「読書感想文」の宿題に苦戦している。
ようやく「ひらがな」や「カタカナ」を覚えた程度の学習進度である。
「読む」というよりは文字を見て「音を発する」といった方が正しい。
一人で文章を読めるレベルではない。
だから、読書感想文の前に、「読書」が大変なのだ。
しかも、出された課題がこれ。
挿絵の一つもない、文字を印刷しただけの課題図書。
小1が挿絵なしで言葉を読み、場面をイメージする。
まずお尋ねしたい。
小1の教室では、1学期のうちにそういう学習を十分にさせているのか。
また、この課題図書。
対象が低学年となっている。
低学年とは小1と小2である。
小1の夏休みと小2の夏休み。
「できること」に差がありすぎる。
さて、それで感想文を書くわけだが…。
文字を「読む」のも大変なのだ。
「書く」となるとさらに大変である。
頭の中で思い浮かべたフレーズを、文字にしていく。
その間に思い浮かべたフレーズを忘れていく。
文章を書くためには、「思考」と「筆記」を同時進行で行っていくわけで、どう考えても今の学力では無理がある。
こうして、次男坊は「自分は読めなくて書けない」ということを自覚し自信をなくす。
勉強が嫌いになる。
それが嫌で、親は必死になる。
結果、誰の作文なんだかわからない親の力が90%の読書感想文ができあがる。
バカな学級担任に言っておきたい。
お前、そういう指導、してあるんだろうな?
ちゃんと1学期の間に、子どもたちに読解できる力を蓄え、自分の思いを書けるレベルに全員を指導したんだろうな?
そういうことを意識せず、コンクールに応募する作文が学校として必要だから書かせているのだとしたら、お前ら、マジで学校の先生を辞めろ!と俺は言いたい。
「今の力でできる範囲でいい。やれないなら出さなくてもいい」
そう次男坊には伝えたけれど。
彼にだってプライドがある。
宿題として出されたからには出したい。
それで妻の力を借りる。
妻もイライラしながら、読書感想文に付き合う。
百害あって一利なしの宿題だな。
こうやって小1の頃から勉強が嫌いな子どもを増やす。
意味不明だ。
長男が小1のとき、僕が全力の力で生活作文を書いてみた。
手加減なし、大人の文章である。
国語の先生が全力で小1の作文を書いたのだ。
どう見ても、子どもの文章ではない。
どうなったと思う?
見事、学年代表に選ばれた。
僕は「先生ってアホだな…」と思った。
発達段階と文章を見たら、一目で子供が書いていないとわかるように書いてあげたのだ。
学校ってそういうところだ。
素晴らしい先生もいっぱいいるけれど、アホな先生もいっぱいいる。
だから、学校に過度の期待は必要ないと思っている。
行きたい子は行けばいいし、行きたくない子は行かなくてもいい。
「お前ら教師から学ぶことは一つもない」と言って、学校に行かない選択をした子もいる。
それもありだな、って思う。
ちなみに、僕はこの次男坊の担任の先生を責める気はない。
周りの先生も宿題を出しているから、自分も宿題を出しているに過ぎない。
彼らは「コマ」であって、考える存在ではないのだから仕方がない。
昔、養護教諭が必死に牛乳を子どもたちに飲ませていた。
子どもたちは気持ち悪そうな顔をして必死に飲んでいた。
それで、僕はこう問いかけた。
「日本人の身体ってさ、牛乳をあまり吸収しないみたいじゃん?牛乳が身体にいい、みたいな根拠もないみたいじゃん。知ってる?」
「はい、知っています」
「じゃあさ、なんでそんなに必死に牛乳を飲ませるの?」
すると、彼女はこう答えた。
「牛乳を飲ませるのが私たちの仕事です」
僕はもう、話すのも嫌になった。
そっか!僕らの仕事は牛乳を飲ませることだったんだ!
超、目から鱗!
ロボットだな。
言われたことを言われた通りにやるロボット。
コマだよ、コマ。
担任の先生だって「読書感想文」を宿題として出すのが仕事であり、書いたものを集めるのが仕事なわけさ。
お国の方針に従って任務を遂行するだけの存在だな。
俺は、そういうのが嫌い。
だから、ロボットからはムッチャ攻撃対象になった。
「あの先生は勝手なことをやっている」
「足並みを乱す」
「子どもに迎合している」
ま〜、そうだろうな〜と思う。
「いい先生から辞めていく」とよく耳にする。
ロボットでいられない先生は、現場の同調圧力に苦しむ。
「ホントにこんなことを私はやりたかったの?」って悩む。
これからこの流れはさらに加速していくと思うよ。
そして、素晴らしい教育者たちが学校現場を離れ、それぞれが学びの場を作り出すんじゃないかな。
子どもたちは学校だけでなく、自分に合う学び場を選択できるようになると思う。
そっちの方がハッピーだと思う。
学校現場を変えたい!って先生はそれをすればいいし、自分は自分の教育道を突き進みたいって人はそっちをすればいいし。
全部自分の選択じゃん。
やりたいこと、やればいいんだよ。
で、ようやく読書感想文に話を戻そうと思う。
ここで、僕が学校に電話を一本かけて学級担任を追い込むのはカンタン。
追い込もうと思えば休職するまで追い込むのもカンタン。
でもな、それ、次男坊のためにはならんと思うのよ。
結局、子どもがどうしたいか?が大事なわけ。
このクソみたいな宿題を前にしてさ、それをやり切るってのも一つの選択肢。
やらないってのも一つの選択肢。
できる範囲で書いて持っていくのもいいし、父ちゃんに電話をかけてもらって先生に追い込みかけるのも一つの選択肢なわけじゃん。
それを選ぶのが、人生の勉強だよな。
んで、その責任を背負うのは、次男坊なんだよな。
親じゃね〜の。
子どもなの。
子供が選択して子どもが背負うの。
僕が勢いで電話して、担任の先生を追い込むってのは違うと思う。
それをこの子が望んでいるとは思えない。
そう、けっこう親って子供が望んでないことを「良かれ」と思ってやっちまうんだよな。
親である僕ができることなんて、彼の選択を応援するだけだよ。
ちなみに僕は子どものころ、クソみたいな先生たちに「あなたたち、クソですね」と言って嫌われるタイプだった。
小4のときには、学級委員を辞任している(笑)
クソ担任が「お前のような奴は学級委員失格だ!」なんておっしゃるものだから、委員会バッチを先生様に向かって投げつけ「こっちから辞めたるわ!ボケ〜っ!」って感じだった。
そんなことがあったからか、小5・小6はボコボコに殴られた(笑)
目の敵のように殴られたね。
見せしめだな、見せしめ。
殴ってくる先生に、「殴るしかやり方がないんですか?」と言う子どもだったから余計に殴られた。
その頃から、先生って「つまんねぇ大人」の集まりだな〜と思っていた。
だからこそ、学校の先生になって学校を面白くしようと思った。
でも、やっぱ、それってカンタンじゃなかったな。
自分の学級は面白くできてもさ、「学校を面白く」ってのは難しいわ。
やっぱね、教育って「人」なの。
結局、先生が魅力的かどうか、で決まると思う。
で、これが難しいんだわ。
突き抜けた大人なんて社会を見渡しても一部じゃん?
学校の先生だって、大半はコマなのよ。
ま〜、言われたことを言われた通りにできる先生はまだいいよ。
言われたことすらまともにできないヤツもいっぱいいるから。
保護者に電話を入れられない、とか。
ちゃんと謝罪できない、とか。
期限を守れない、とか。
荒れた学校に赴任したときは、やっぱ面白い先生が多かった。
日本人学校に赴任したときは、やっぱ突き抜けた教員が多かった。
ホント、幸せだったと思う。
でも、やっぱ日本に帰ってきて、職員室に耐えられなくなった。
周りがアホばかりに見えて仕方がなかった。
我慢して合わせることに苦しくなった。
すべては流れの中。
独立への道が準備されているかのようだった。
「あなたはもう、学校現場から卒業しなさないよ」って言われてる感じね。
それでも僕は学校は素晴らしいと思っている。
素晴らしい先生がもっと素晴らしく輝ける学校がいい。
そのために一般財団法人しつもん財団主催の「発問力研修」の講師を引き受けている。