なぜ学校は評価するのか、の一つの見解
学校の評価、とりわけ中学校の評価は、高校入試に直結している。
相対評価から絶対評価に変わり、ずいぶんと立つ。
だが、実態は「相対評価」を基準とした「絶対評価」になっている。
建前上、全員が「5」でもいいし、全員が「1」でもいい。
だが、そんな評価はつかない。
そもそも、評価なんてものは、どこまでいっても主観である。
基準なんて、人それぞれ違う。
テスト作成者が違うのだから、難易度だって変わる。
絶対的な評価などできるはずがない。
したがって、どうしても「相対的評価」を基準に「絶対評価」をつけることになる。
転入生が来ると、前籍校から指導要録が送られてくる。
その数字は、前籍校での相対評価を基準とした絶対評価だ。
だから、転校してくると、同じ評価にはならない。
本当に「絶対的」な評価ならば、学校が変わっても「同じ評価」になるはずである。
食べログだって、星5の人もいれば星1の人もいる。
人間の評価など、その程度のものだと認識した方がいい。
さて、この「評価」を問題視する人は多い。
評価で子どもの心を折ってしまうという言い分である。
そこで、今日は異なる視点で書いてみようと思う。
相対的評価の方が、少しだけ客観性が増す。
そのように成績をつけておくと、高校の先生は「中学校の成績」を考慮に入れてくれる。
これが、全員「5」とか付けてしまうと、高校の先生はそんな成績を参考にはしてくれなくなる。
さて、この「相対評価を基準とした絶対評価」があると、高校の先生は「中学校の成績」を合否の参考にしてくれるわけだ。
思春期。
とりわけナーバスになる受験生たち。
受験シーズンの冬はインフルエンザにもかかりやすい。
当然のことながら、当日力を発揮できない子どもたちもいる。
だが、この国では高校入試において「浪人生」になることは稀である。
中学校の先生たちは必死に進路指導をしている。
高校も「中学校の成績」を考慮してくれている。
そこには、ここに書けないような細かな仕事(気配り)があり、一人として「行き先のない子」を作らない仕組みができあがっている。
実際、そういうものに守られて、進路が決まっていく子は多い。
それを過保護だというなら、そうかもしれない。
「当日力を発揮できないのは本人のせいだろ?」と言われればその通りだ。
でもね、「学校の先生」というのは、そうまでして子どもたちの未来を考えている。
自分のクラスの生徒が偏差値の高い学校に行ったからといって、そんなものを誇る教員はいない。
学習塾ではないから、卒業生の進路先が収入につながるわけでもない。
ただ、「学校の先生」は通過点に立ち、入学してきた子どもを次の世界に送り出すことだけを考えている。
もちろん、評価によって潰れる子もいるかもしれない。
だが、評価によって救われる子もいるのだよ。
そして、評価によって潰れる子はね、実は評価に潰されているわけじゃないんだ。
「いい成績を取らなければならない」という価値観に潰されているんだよ。
そのことに気づかない大人は、学校だけを批判する。
でもね、これは受験制度。
もっと言えば、社会の構造によるところが大きい。
そこから見直す必要があると思うんだ。
これはあくまでも、「なぜ学校は評価するのか」の一つの見解に過ぎない。
批判からは、何も生み出さない。
僕はいつもそんなことを考えている。