なぜ人はひとりでは生きられないのか。


二足歩行の生き物

人間を「動物の1種」という視点で今日はお話したいと思います。

僕らはあらゆる動物たちの中で、大変弱い部類に入る生き物です。

 

 

足だってそれほど速いわけではありません。

高くジャンプができるわけでもありません。

木々を飛び移るような身軽さもありません。

鋭い爪も、強靭な顎もありません。

 

 

「野生」で暮らす場合、僕らは動物界でも、かなり弱者であることがわかります。

 

 

森での暮らしを追いやられた僕らは、草原に出ます。

そのとき、二足歩行を覚えたのだそう。

草原では、ほとんどの動物は草むらから頭だけを出した状態になります。

他の動物から見ると、二足歩行の人間は、かなり大きな生き物に見えていたはずなのです。

 

 

出産間隔が短い

人間の出産間隔は約1年です。

他の動物はどうでしょうか。

 

 

ゴリラの出産間隔は4年です。

チンパンジーの出産間隔は5年〜7年です。

オランウータンの出産間隔は7年〜9年です。

 

 

つまり、人間は他の動物に比べ出産間隔が短いのです。

それだけ、人間は弱く、野生の世界では死亡率の高い生き物で合ったことが想像できます。

 

 

生き残ることができない以上、たくさん産む必要があったのですね。

 

 

お母さんは一人では子育てできない。

二足歩行に進化する過程で、母親の産道は狭くなりました。

ですから、人間の赤ちゃんは脳が未熟な状態で生まれてきます。

 

 

頭のサイズが小さくなければ、産道を通過できないからです。

生まれたばかりの赤ちゃんの脳のサイズは大人の4分の1ほど。

1歳までに成人の60%ほどの大きさに成長し、3歳で大人と同等のサイズになるのだそうです。

 

 

1年経てば出産できるようになる母親の身体。

3年経って、ようやく大人のサイズになる赤ちゃんの脳。

 

 

つまり、お母さんは次の子どもの出産ができるのに、子どもは一人前に生活ができる状態に育っていないことになります。

これは、生き物として大変不自然な状態です。

 

 

このギャップを埋めるのが、「共同養育」という考え方です。

僕らはそもそも一人では子育てができないようにデザインされている生き物なのです。

 

 

僕たちは一人では子育てができない

人間は高度なコミュニケーション能力をもった生き物です。

また、我が子を他者に委ねることができる数少ない生き物です。

 

 

動物の世界にも、母親に育児放棄された子どもを他の動物が面倒を見ることはあります。

しかし。そういうことではありません。

 

 

人間は、自らの意思で我が子を託すことができる唯一の動物なのです。

動物全体で考えた場合、これはかなり変わった育児法であることがわかります。

 

 

お母さんが一人で子育てに励むことが、いかに不自然な状態であるかをご理解いただけたでしょうか。

 

 

家族とは何か

霊長類学の創始者である今西錦司先生は、動物社会から家族が成立していく条件を挙げています。

その一つで「外婚性」です。

 

 

種を存続させるためには、遺伝子的に遠い存在を引き入れる必要があります。

ですから、親族外の人間を引き入れるのです。

 

 

また、「インセスト・タブー」も守られています。

「インセスト・タブー」とは近親間で性交渉を行わないことです。

 

 

チンパンジーは発情期になると、膣の周りの皮である性皮が膨らんでピンク色になります。

薄暗い森の中でも大変目立つのです。

そこにめがけてオスが殺到し、乱交的な交尾に発展します。

これはニホンザルにも見られる現象なのだそうです。

 

 

ちなみに、交尾にかかる時間は平均7秒。

このようにして、不特定多数のオスと交尾を行います。

こういう世界では「インセスト・タブー」は守られません。

 

 

したがって、彼らには「母子」という関係性はあっても「家族」という概念はないのです。

コミュニティーではなく「群れ」を作るわけですね。

 

 

家族になるには「父親」が必要だけど…

家族となるには、「母子」以外に「父親」という存在が必要です。

この世界で唯一人間だけが「家族」というものを作ります。

 

 

つまり、「父親」を「家族」に加えるのは人間だけなのです。

 

 

では、「父親」はどのように認定されるのでしょうか。

それは「母」と「子」の承認です。

 

 

DNA鑑定という科学的な証明方法が確立される以前の世界では、「父親」は「母」と「子」に「あなたは父親ですよ」と認められて初めて「父親」を名乗ることができたわけです。

 

 

逆に言えば、あなたが性交渉を行なって生まれたとしても、「この子はあなたの子ではありません」と「母親」に言われれば、あなたは「父親」にはなれないわけです。

 

 

なんと恐ろしいことでしょう…。

 

家族だけでは家族は継続できない!

さて、晴れて「母」と「子」に「父親」認定されたあなた。

ようやくこれで「家族」になれました。

 

 

しかし、このままだと僕らは一代で遺伝子の幕を閉じることになります。

「男の子」と「女の子」を産み分けたとしても、「インセスト・タブー」が守られる以上、そこで種は途絶えることになるからです。

 

 

そこで、僕らにはもう一つ、「別の家族」が必要になります。

これが「外婚性」です。

家族を成立させるためには、「別の家族」と共同体を作る必要があります。

 

 

こうして、僕らは共同体、いわゆるコミュニティーを形成することになります。

僕らは本能からそのことを理解しており、他者とつながろうとするわけです。

 

 

人間は一人では生きることができないのです。

 

 

「食物の共有」と「男女の分業」

人間と他の動物を考えた場合、極めて人間的な行動が「食物の共有」です。

 

 

コミュニティーを形成すると男女は分業を始めます。

今、こんなことを書くのは時代錯誤かもしれません。

あえて、批判を承知でいうならば、男性が外で狩猟をし、女性はコミュニティーを守る、ということで僕らの祖先は自然界を生き延びてきました。

未熟な赤ちゃんを守るために必要だったのです。

 

 

そこで、人間は「二足歩行」により、空いた手で食物を運びます。

基本的に動物の食事は、採取したその場で食べるのが基本です。

弱い生き物は安全な巣に持ち帰って食べることもあります。

しかし、それだって「採取した者」が食べるのが基本です。

 

 

また、自然界では弱者が得た食物を強者が奪うこともあります。

つまり、自然界とはそのようにできているのです。

 

 

しかし、人間は違います。

食物を手に入れるとそれを持ち帰り、コミュニティーに分け与えるのです。

種を保つためには、危険を冒して食料を手に入れ、それを届ける必要があったのです。

 

 

人間は食料の豊富な森を離れ、草原で暮らし始めました。

そこは食料の供給量が限られた世界です。

他の動物のように強い個体だけ食料を独占したら、種は滅びてしまうのです。

 

 

草原は危険がいっぱいです。

でも、力の強いチンパンジーやゴリラが暮らす森では生きていけません。

 

 

そこで、人間たちはできるだけ安全な場所に集落を作りました。

そのコミュニティーを女性が守りました。

 

 

そして、男性は食料を調達し持ち帰ったのです。

こうして、男女の分業が始まりました。

 

 

人間の共感力 

子どもが川で溺れていたとします。

サルの子どもが溺れた場合、母親だけは助けようとしますが、他の個体が助けることはまずありません。

 

 

ゴリラやチンパンジーは、子どもが大人の能力を持たないことを理解しているため、助けようとします。

しかし、それは近親者に限ってのことなのです。

 

 

近親者以外の者にも心を向け助けようとするのは人間だけなのです。

 

 

別の話をします。

動物界では、美味しいものを見つけたら、その場で食べてしまうのが基本です。

我慢する理由がないからです。

 

 

 

しかし、人間は「その場で食べたい」という気持ちを乗り越え、コミュニティーに食料を持ち帰るようになります。

 

 

もちろん、それは「集団を維持するため」とも言えます。

ですが、それだけではありません。

 

 

食料を持ち帰ったときに、仲間が称えてくれる、嬉しそうな顔を見せてくれる。

そのことがとても重要だったのです。

 

 

好きなものを好きなときに好きな場所で食べればいい。

でも、そんな自分の欲望を抑圧して食物を持ち帰り、みんなが喜ぶ顔が見たいと願う。

 

 

僕らは「社会的存在」です。

誰かに存在を喜ばれるということが、何より人間を人間らしくさせるのです。

 

 

狩猟採集民族は争いを好まない

狩猟採集民族は土地を所有するという概念がありません。

区分けをしてしまうと、獲物を追いかける際に不便だからです。

 

 

 

武器を持った彼らは、一見野蛮な集団に見えます。

しかし、それは大きな誤解です。

武器によって殺傷された遺体というのは、ほとんどないのだそうです。

 

 

所有という概念がない以上、争いごとは面子を潰されたときにしか起こらなかったそう。

では、面子を潰される事件とは何か。

 

 

いつの世も変わりません。

人の嫁さんを寝取ったとき。

そんなことしかないのだそうです。

 

 

ひとたび面子が潰されると、村の男性たちはその村へ押しかけます。

そして、話し合いが持たれ、場合によって争いが起きます。

しかし、それもやがて収束します。

 

 

村に訪れた男性たちは「俺たちの勝ちだ」と言って引き返します。

村に残った男たちも「あいつらは恐れをなして逃げていったぞ」と言って意気揚々とします。

 

 

どちらも勝たない代わりに負けない。

負けないことで面子が保たれる。

 

「負けない論理」で成立している。

それが人間社会なのだそうです。

 

 

弱者の仲裁

この争いごとを収めるためには、仲裁役が必要です。

争いごとが起きたとき、仲裁役が入り、引き分けに持ち込まれるのは人間社会だけのようです。

 

 

このとき大切なのは、仲裁役が弱者であることです。

 

 

たとえば、力の強い者がやってきて、それを納めてしまう。

すると、どうでしょうか。

 

 

争いを納めた強者が「勝者」であり、「争っていた二人」は「弱者」という構図ができあがってしまいます。

これでは、面子が保たれないのです。

 

 

ですから、仲裁役に入るのは女性でした。

すると、女性の涙を見て、「まあ、お前が言うならやめてやるよ」となる。

弱い立場の者、この場合は「力の弱い者」が仲立ちをすることで両者の面子が守られるわけです。

 

 

ここにも高い共感力が発揮されるのですね。

 

「いじめ」は人間らしくない

サルの社会は「勝ち負けの論理」です。

弱い者を徹底的に叩きます。

徹底的に叩くことで、自らが上位であることを示します。

 

 

自然界を生き抜くためには、上位であることが大切です。

下位の者は餌にたどり着くことすらできないからです。

 

 

一方、ゴリラは自分よりも弱い生き物にも餌場を譲る場面があるそうなのです。

弱い生き物が物欲しそうな顔で眺めている。

しつこくしつこく眺めている。

 

 

すると、強者のゴリラでも弱者のゴリラに餌を譲るのだそうです。

 

 

さらにすごいのは人間です。

人間は相手が物欲しそうな顔をしていなくても譲ることができます。

それは、「共感力」を有しているからに他なりません。

 

 

しかしながら、現代社会では残酷な「いじめ」も存在します。

弱いものを徹底的に叩く。

そんな姿が見られるわけです。

 

 

これは、極めて「人間的ではない行動」だと言えます。

生き物として自然ではないのです。

それは彼らの原因ではなく、生育歴をきちんと検証する必要があるのです。

 

 

 

「恥ずかしい」と言う概念

「恥ずかしい」という概念は、人間特有のものなのだそうです。

顔を赤らめるという生理現象として現れることから、起源が古いこともわかります。

 

 

「恥ずかしい」という気持ちは、社会規範がなくては成立しません。

僕らが人前で全裸になることを恥ずかしいと感じるのは、「人前で裸になるべきではない」という社会規範があるからです。

 

 

アマゾンの奥地で暮らす裸族の女性は、胸を見せていても恥ずかしいとは感じません。

 

 

「恥ずかしい」という概念が僕らのDNAに深く刻まれていることからも、大昔から社会規範というものがあったと言えるでしょう。

 

実は、チンパンジーの社会にも規範意識があるのだそうです。

でも、人間の「それ」とは少し違います。

 

 

チンパンジーが規範を守るのは仲間が見ている範囲でのこと。

あくまでも視覚の世界であり、誰も見ていなければ規範を犯します。

 

 

一方、人間は違います。

規範意識が内面化しています。

誰も見ていなくても自分を律することができます。

 

 

人が見ているから規範を守るのではなく、自分で社会の規範を守ることが、人間を人間足らしめているのです。

 

 

「社会的存在」である僕ら。

僕らはひとりでは生きていけません。

自分が帰属する家族や共同体の中で生きています。

共同体を保持し、種をつなげるため「共同養育」「食物の共有」を行いました。

 

 

また、共同体に貢献することで、自分の存在を確認しました。

そして、共同体を維持するために、社会規範が生まれ、それを守りました。

 

 

自分の欲望を押さえてでも貢献しようとする共感力もまた人間らしい在り方なのですね。

 

 

人間と他の動物を比較した場合、人間を人間足らしめるものは何か、が見えてきます。

 

 

効率重視、経済重視の現代社会。

プライバシーという言葉が共同体を分断しました。

大家族であった家族関係も核家族化が進みました。

孤食に代表されるように、家族の関係すら希薄化しています。

 

 

何百万年とかけて進化を続けてきた人間。

成熟させてきた社会。

人間の進化が、ここ100年や200年で変わるはずなどありません。

 

 

その生き方は自然か、不自然か。

そろそろ僕らは「在り方」を問うときが来ていると思うのです。

 


 

【参考文献】

山極寿一 関野吉晴

『人類は何を失いつつあるのか』

(東海教育研究所)

くればやし ひろあき

・株式会社ミナクル組織研究所 代表取締役

・フォロワー10万人の教育系TikTokクリエイター「くれちゃん先生」としても活躍中。人間関係や教育についての動画を配信

・1978年、愛知県生まれ。16年間公立中学校の教員として3,000人以上の子どもたちを指導。名古屋市内で最も荒れた中学校で生徒指導の責任者を務め、その後、文部科学省から上海に派遣され、当時世界最大の日本人学校であった上海日本人学校の生徒指導部長を務める。

・互いの「ものの見方や感じ方の違い」を理解し合うことで、他者に寛容な社会を実現したいと願うようになり、2017年独立。

・独立後は、教員時代の経験を活かし、全国の幼稚園や保育園、学校などで保護者向け講演や教職員研修を行う。2018年・2019年には、100人のボランティアスタッフを束ね『子育て万博』を主催。今年10月にパリコレクションのキッズ部門を日本に誘致して開催された『Japan Kids Fashion Week2021』において、全体計画及びキッズモデル・ボランティアスタッフ総勢150名のマネジメントを担当。

・2020年11月、「スタッフみんなが、明日も生き生きと来る!」を理念に、株式会社ミナクル組織研究所を設立。経営者、教職員、スポーツ指導者など、組織のトップや人を指導する立場の人たちから依頼を受け、人間関係づくりやチームづくりに関する講演や企業研修、教職員研修を行っている。経済産業省の事業再構築事業として人材分析システムを開発中。