最上のリーダーとは? 〜ポンコツリーダーとハダカの王様~
リーダー論を語るとき、中国の古典である『老子』の一節がよく話題になる。
とりあえず、下に載せておく。
太上は下、之有るを知るのみ。
(最上のリーダーは、存在だけが知られているような人だ)
其の次は親しみて而うして之を誉むる。
(その次に位置するリーダーはみんなが親しんで名前を呼び、誉める)
其の次は之を畏る。
(その次なら、人々に怖れられる)
其の次は之を侮る。
(その次なら、人々は馬鹿にする)
老子さんが言うには「最も優れたリーダーってのは、部下に存在を知られているだけの人よ」と言うのである。
どういうことだろうか?
次は、みんなに親しまれるような人。
まー、尊敬されるような人ですなぁ。
んで、次はみんなに恐れられるような人。
で、最後は馬鹿にされているような人。
まあ誰もが尊敬されるリーダーになりたいわけです。
でもね、尊敬されるよりもすごいリーダーがいるんです。
それが存在しか知られていないリーダーです。
この前、すんごいポンコツのリーダーがいたんです。
「私はあれがやりたい!」って言うクセに何もできない。
それで「みんな、手伝って〜!」って叫ぶ。
すると、みんなが率先して動いてくれる。
助けてくれる。
「お前、俺たちがいなきゃ、何にもできないな」なんて言われながら。
「ホント、ポンコツだよな」って笑われながら。
気がつけば、大きな組織になっていて事業ができあがっている。
こんなことやりたい!
あんなことやりたい!
言い出しっぺになって、みんなに手伝ってもらいながら、事業をつくりあげる。
リーダーとは思われていないけれど、結果として中心にいて。
この結果として、「みんなが動いちゃう」ってのは、組織としてすごく重要。
自発的にみんなが動く。
そういうポンコツリーダーこそが最上のリーダーなのである。
ポンコツばんざい!
さて、問題はここから。
恐れられているリーダーと馬鹿にされているリーダー。
この区別をわかりやすくしたい。
そこで登場するのが「ハダカの王様」だ。
アンデルセンの有名な童話である。
おしゃれ好きの王様のもとに、仕立て屋がやってきて言う。
「この布は馬鹿には見えない布でできています」と。
それを聞いて、王様は喜んで着るのだけど、王様には布地が見えない。
でも、馬鹿だと思われたくないので「どうだ?おしゃれだろ?」と言う。
家来もまた、王様に合わせて「おしゃれですね」なんて言ってしまう。
やがて、王様はその服を着てパレードを行うのだけど、そんな王様を見て沿道の子どもが叫ぶのである。
「王様は裸だ!!」
さて、問題。
家来は王様が怖くてモノが言えなかったのだろうか?
君はどう思う?
僕はそうは思わない。
「コイツ、馬鹿だな…。ハダカだぜ?」と思った家来がいたはずなのだ。
「なんかかわいそう。誰か教えてあげなよ…」と思った家来もいたはずなのだ。
揃いも揃って、誰も進言しなかった。
誰も進言してこないのは、怖いからではない。
呆れられているのだ。
王様は「俺が怖いからだ」と思っているが、実はそれ、呆れられてんだぜ?って話だったりする。
で、話を戻すと、前述のポンコツリーダーはさ、みんなに馬鹿にされているが、実は最上のリーダーだったりする。
裸の王様は、恐れられていると勘違いしているが、実は馬鹿にされている。
まあ、つまり、どちらも馬鹿にされてるんだけど、大きな違いがある。
ポンコツリーダーはみんなが動いてくれて、ハダカの王様の周りのみんなは何もしない。
気分をよくしてくれるが、誰も動いてくれないのである。
さて、あなたはポンコツリーダーだろうか?
それとも、裸の王様だろうか?
んで、この老子の話には続きがある。
そちらも載せておこう。
信なること足らざれば、焉に信ぜられざること有り。
(リーダーに信義がなければ、人々から信じられることもない)
悠として其れ言を貴べば、功を成し、事を遂げ、百姓皆、我自ずから然りと謂わん。
(リーダーがためらうように言葉を選び、功を成してやるべきことはやり遂げれば、人々はみな、我々は自ずからこうなのだと言う。)
あなたはあなたの周りの人を、本当の意味で信じているだろうか?
美味しいところをリーダーが最初に食べてはいけない。
みんなに喜んでもらったうえで、最後に汁を啜るぐらいの人でありたい。
その存在も知られないようにね。