正しさをぶつけ合ってもさ、終わりのない戦いが続くだけなのさ
世の中はいつも、「正しさ」と「正しさ」で戦争をしている。
あー、別にこれ、ロシアとウクライナの話がしたいわけじゃない。
SNSを眺めてごらんよ。
そこかしこで、「俺はこう思う」を主張して、「それは違うんじゃないか」と反論しあっている。
それを人は「議論」と呼んでいたりするんだけど。
話がずっと平行線のまま進むんだ。
互いに歩み寄ることがないから、ずっと平行線のまま。
なぜだと思う?
答えは簡単さ。
同じ方向を向いていないから。
たとえばこれ、会社でどうやって売上を伸ばそうか?なんて話をしたとする。
こういうときって、話をする人たちの意識が同じ方向に向かっている。
この例で言えば「売上を伸ばす」というゴールに向かっているんだな。
そんなときは、議論すればどんどん深まっていく。
ところが、だよ。
SNSで交わされるコミュニケーションは基本的に一歩通行だ。
そのうえ、「相手を打ち負かすこと」に意識が向いている。
一方が勝てば、一方が敗者。
だから、話し合いは平行線になる。
そんなものは「議論」ではないし、コミュニケーションでもない。
僕が国語の授業でディベートが嫌いだったのは、このためである。
ディベートをすると、「相手を打ち負かすこと」にエネルギーを注ぐことになる。
相手の言葉、真意を理解しようとはせず、揚げ足を取り切り捨てる。
そんなものはコミュニケーションではない。
先日、僕も運営に携わるキッズファッションショーJKFW2022の面接をしたときのこと。
ある外国人の親子の面接をしたの。
お子さんは日本語が話せるんだけど、お父さんの日本語はさっぱり聞き取れなかった。
断片的に聞き取れる単語をつなぎ合わせても、意味を理解することはできなかった。
それなのに、僕は「なるほど」「そうなんですね」「ほほう」と話を進めていった。
そのやりとりを眺めていた運営委員長が驚いていた。
何を言っているかは重要ではない。
一生懸命伝えようとしていることが重要なわけだ。
それを感じ取ればよい。
これは幼い子と話をするときも変わらない。
ファッションショーのレッスンで幼児たちと話すと、全員が同時に話しかけてくる。
それぞれが自分の話したいことを話すし、そこには前後のつながりもなければ、他者の言葉を呼び水にして…なんてこともない。
それぞれがそれぞれの話したいことを同時に話す。
当然だけど、僕は何一つ聞き取れないし、何一つ理解できない。
でも、会話は進んでいく。
「伝えたい」という気持ちを受け止め、「聞いてるよ」という気持ちを態度で返せばいいのだ。
SNSでは今日も活発な言葉の戦いが起こっている。
ある人は「自分が正しい」と主張し、別のある人もまた「自分が正しい」と主張している。
コロナとか、ワクチンとか、ロシアとか、ウクライナとか。
どちらが正しくて、どちらが間違っているのか。
今日も言葉のボクシングが続いている。
殴り合ったところで傷つくだけだ。
「俺はこう思うよ」
「へえ、俺は反対にこう思うよ」
「ああ、そうなんだね」
で終われば世の中は平和だ。
結局僕が何を言いたいかと言うと、「戦わなきゃ平和なのにね」ってこと。