「自分を知る」って難しいからこそ、見つけてあげることが大事なのです。
人に相談していると、「この人はよく僕のことがわかっているな」と思うことがあります。
その実、よくよく話をしていくと、自分自身のことはよくわかっていない人が多いのです。
他人の長所だとか、短所というものはよく見えるくせに、どうやら自分のことはうまく見えないようで。
「自分を知る」
これはそう容易いことではないようです。
目は外側を向いて作られています。
僕らは未だかつて、生の、リアルな自分を見たことはないわけでして。
「自分を知る」
これはかなり難しいことなのです。
だからこそ、先生は児童生徒の、監督やコーチは選手の、経営者や上司は部下の、「強み」を見つけてあげることが重要です。
だって、自分では見つけられないものなのですから。
昔、こんな女の子がいました。
目立たない女の子で、お勉強も得意ではありません。
でも、僕はこの子、「面白いな」って思ってたんです。
国語の時間、クセのある文字でぎっしり作文用紙を埋めてきます。
文章はお世辞にも上手とは言えません。
誤字脱字だらけですし、「てにをは」だってデタラメ。
国語の文章としてはC評価です。
でも、僕は「面白いな」って思ってたんです。
それは、「目のつけどころ」です。
「あー、そこ見てるんだ」とか「そこをそういう理解するんだ」とか、そんな感じ。
運動会の話を書けば、多くの子どもたちが友だちのこととか、競技中のこととかを話題にするのに、その子は休憩中に石灰で線を引いている人の話を書いていたり。
みんなとは違う視点を持っている。
そこが面白いな、と思っていました。
それである日のこと。
僕は他の先生の授業を見にいくのも好きなんですね。
別に授業に興味があるわけじゃありません。
国語以外の時間はどんな姿なのかな?が興味があるわけです。
で、その日は絵を描く授業だったわけですけど、書いてる絵が独特なんです。
みんなと構図が全然違うんですね。
「へえ、この子にはこれがこう見えてるんだ」
と眺めていると、美術の先生が近くに寄ってきて
「面白いよね」
と言うので
「気づいだ?」
と尋ねたら
「うん、いつもみんなと違う視点で描くからね」
とのこと。
で、僕らがこの子の視点が他の子とは違うと気づけたのは、「他の子」が存在しているからなんだけど。
他の「その他大勢」が描く作文や絵画の傾向を「たくさん」見たからこそ、その子の「独自性」に気づけたわけです。
先日、ある小学校の先生と話していたときのこと。
その学級には図工の時間に特別支援学級の子が通級指導で通ってきます。
多くの子がある程度、枠の中で決まったことをすることに長けているのに対して、特別支援学級の子どもたちが本当に枠を取っ払って自由に作品づくりに没頭するわけです。
で、やはりキラリと光る作品をつくる。
それで、普通学級の先生は絶賛して褒めるものだから、彼ら彼女らはさらに力を発揮します。
それを特別支援学級の先生は驚いていたんだそう。
普通学級の先生がいつも眺めている児童とは異なるからこそ、その感性の鋭さに気づけた。
特別支援学級の先生はいつも眺めているからこそ、それが「普通」に見えた。
なかなか面白いな、と思いました。
僕は今回、はじめて本を書きました。
僕からすると「普通」のことで、正直言うと、これが何かすごく学びになるようには思えないのです。
でも、原稿を読んでくれた人はお世辞抜きに「とても勉強になった」と言ってくださいます。
不思議だな、って思うんです。
だからね、本当に自分のことってわからないんです。
自分のことは何ひとつ自分から見たら「特別」ではないからです。
でも、それは他者から見たら、とても「特別」で「普通ではない」ことなのかもしれません。
周りが気づいて、その特別さを生かしてあげると、きっとその子は輝きます。
冒頭の彼女、学級のスローガンづくりとか、ポスターづくりとかで、すごく力を発揮してくれました。
「○○さん、どう思う?」」って尋ねると、独特の視点を与えてくれるんですね。
学級委員の女の子が「そんなん、気づかんかったわ。あんた、すごいね」なんて言っておりました。
それで、「じゃあ、その視点でもう一回考えてみようか?」なんて促すわけです。
集団の考えが煮詰まったとき、彼女の与える新たな視点は、集団の向かう方向を指し示す包囲磁石のようでした。